社史『ばね物語』15 躍進(7)
吉村 篤
ばね物語 フセハツ工業50年の歩み
フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。
社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。
株式会社東洋発条製作所 代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社 代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社 取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所 代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条 代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所 社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所 代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社 代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所 社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社 代表取締役 吉村健一
『フセハツ工業』の企業理念
弾む原理を進化させ、
小さくても大きな使命と責任感をもって
社会に貢献すべし
躍進(7)その1 山本晶の入社
現工場長「集団就職」で
昭和37年(1962)3月末に、15歳の山本晶(現工場長)が佐賀県から集団で入社してきた。
山本の叔父が『中村金物店』の番頭をしていた関係で、『布施発条工業所』を紹介されての入社だった。
初任給が9,000円で寮に入って半分の金額を差し引かれた。
そのころの寮は四畳半二部屋、八畳間が二部屋あり、多いときで15人ほどの人が住み込みで働いていた。
ほとんどが奄美大島から大阪にきた人々であった。
入社したとき、山本は寮の一部屋に永田一義と一緒に住んだ。部屋には二段ベッドが置いてあり、下の段に一義が上の段に山本が寝た。
山本は仕事が終わったあと、天満橋の大阪工業技術専門学校に通って製図技術を学んだ。
学校に行かない夕方は時給52円で残業をして、さらに残業のあと食堂で引きバネのフック起こしの手仕事に励んだ。
躍進(7)その2 奄美大島から最後に来た人

社長を根負けさせた無言の訴え
戦時中を東京で過ごし、戦後の昭和21年(1946)に奄美大島に帰ってから17年間、大工と農業と大島紬の柄染めをしていた中田鉄弘が昭和38年(1963)、大阪にやってきた。
既に38歳になっていた。中田鉄弘は忠雄の妹、恕志子(じょしこ)の夫だった。
子供の教育のことを考えて、大阪へ行きたいと作田社長に手紙で打診をくりかえしたが、作田社長は鉄弘の年齢と生活環境を考えると奄美大島にいたほうが良い、大阪に呼んで妹と子供達に迷惑をかけることになってはいけないといって、なかなか首を縦に振らなかった。
それでも中田鉄弘の意志は固くて、単身で大阪へやって来た。
中田は『布施発条工業所』に入社できるまで木工所に勤め、無言で入社を訴えた。
ただ、空いていた谷町営業所の2階に寝泊まりさせてもらい、毎朝5時前に起きて営業所の掃除と片付けをし、食事は外食を続けた。
作田社長は根負けしたのだろう、中田の入社は認められ、金型作りや機械の改造に従事した。
金型の作り方は吉川から教えてもらった。
工場で金型作りに専念して、谷町営業所に帰る最終電車ぎりぎりまで仕事をしているとき、作田社長は寝間着姿のまま隣の自宅から起き出して見に来た。
鉄弘は東京で勤めていたとき、機械を扱っていたので油汚れは苦にならなかった。
家族も昭和40年(1965)に奄美大島から大阪に転居してきた。
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監修者
フセハツ工業株式会社
代表取締役社長
吉村篤
2000年、ばねの総合メーカー「フセハツ工業株式会社」に入社。2013年、四代目代表取締役社長に就任。
- 一般社団法人 日本ばね工業会 会員
- 日本ばね学会 会員
- 公益社団法人 大阪府工業協会 評議員
- 東大阪市工業協会 理事
- 東大阪商工会議所 議員
- 特定非営利法人 新共創産業技術支援機構(ITAC)理事
- 一般社団法人 大阪溶接協会 会員
- 一般社団法人 布施交通安全自動車協会 理事