社史『ばね物語』3 出発(2)
吉村 篤
ばね物語 フセハツ工業50年の歩み
フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。
社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。
株式会社東洋発条製作所 代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社 代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社 取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所 代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条 代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所 社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所 代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社 代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所 社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社 代表取締役 吉村健一
『フセハツ工業』の企業理念
弾む原理を進化させ、
小さくても大きな使命と責任感をもって
社会に貢献すべし
出発(2) 結婚
独立をはばんだ「空襲警報」
忠雄が満24歳になったころ、父の忠仁が結婚の話をもってきた。
母、冨士松の弟の娘、永田タカヰを嫁にどうか、というのである。
タカヰは大正11年(1922)3月10日生まれで、織機のペダルに足が届かない幼いころから紬織りの技術を教え込まれた。
奄美大島では一軒の家に紬を織れる女の子が三人おれば、家が一軒建つくらい稼ぐと言われていた。
タカヰは永田家にとって、かけがえのない稼ぎ手であった。

タカヰの稼ぎで父親は焼酎が飲めたし、素麺を買ってきて素麺汁を作り味わうのが、永田家の人々のこの上ない贅沢でもあった。
昭和17年(1942)に忠雄とタカヰは、奄美大島で親類を集めて盛大な結婚式を挙げ、豚一頭をつぶして料理にした。
豚一頭を振る舞う料理は奄美大島では最高のご馳走なのである。

旧正月が明けるとすぐ二人は大阪へ発った。
名瀬から船に乗って、途中で鹿児島に寄港して大阪までは二泊三日の旅だった。
忠雄とタカヰが結ばれた前年の昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争が開戦、その半年後の昭和17年(1942)7月1日には、ミッドウェー海戦で日本軍が惨敗して、戦局はじわじわと劣勢に傾きつつあった。
奄美大島から大阪へ来た最初のころ、タカヰは『中村金物店』で接客するにも言葉が通じなくて恥ずかしい思いをした。
言葉が通じなければ商売にならない。
タカヰは「心の思いが通じる奄美大島の言葉は、意味が深くていい言葉だ」とつくづく思うのだった。
それと、奄美大島と大阪とでは温度差が大きく、冬に建物の屋上に上がったら思わず震え上がった。
こんな寒さは奄美大島では経験したことがない。
食糧不足のため、『中村金物店』の奥さんが畑仕事に精を出していたので、タカヰはよく鍬をもって手伝った。
大阪の空に空襲警報のサイレンの音が響き渡ることが多くなった。
『中村金物店』に勤めて13年ほど経った昭和19年(1944)、独立して店を構えようと思っていた矢先に、忠雄は大阪の造船所に徴用された。
徴用された造船所が空襲を受けて消滅、忠雄は消防団への入団を志願した。