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2017/04/12

「フセハツ卒業生」の思い出 高度経済成長 1958~1970

吉村篤
ばねとくらす

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フセハツ卒業生

独立をうながしバックアップ

 

 

当社の社員で早い時期に独立したのは裏野春夫だった。

昭和33年(1958)に作田社長から「独立してみてはどうか」と声をかけられた。裏野の弟もばね製造の経験があり、二人で力を合わせればなんとかなるだろう、と思った作田社長は独立を打診してみたのだった。

しかし、裏野自身には子供が3人いて、不安と心細さでいっぱいだった。

「結果的には、あのときに独立したらからこそ現在の『東洋発条製作所』があると」と思っている。

 

裏野のすぐ後輩にあたる越岡元弘は、昭和39年(1964)8月11日に、建具屋を経営していた父親が手に怪我をしたのを機会に、当社を退職して父親の仕事を手伝った。

建具屋に精を出す一方で、ばね製造会社を設立しての二頭立てで仕事をした。越岡が28歳のときの独立である。

越岡が独立するに当たっては、作田社長が「得意先を回ってこいよ」と言ってくれた。これは得意先のいくつかを持っていけよ、という暗示だったのだと思う。

 

越岡の退職をフォローするために永田昭夫が大阪営業所から本社に戻り、昭和40年(1965)から常務取締役を務めて本社営業に全力を注いだ。

 

この年に続いて永田隆光が独立した。隆光の場合は、幸い妻の良子が美容師の免状をもっていたので美容院を開き、内職をしながら工場を地道に経営することができた。

 

隆光が辞めたあとなので、自立を決めていた吉川晋吾は気を使って辞表を出しづらかったが、一年ほど前から決心していたこともあり、思い切って昭和41年(1966)1月31日に独立した。

ばねの種類は『フセハツ工業』が扱う線ばねとは違う板ばねを製造した。

 

その後も昭和43年(1968)に永田一義、昭和44年(1969)に竹山保が矢継ぎ早に独立した。

 

永田昭夫は13年間在職して、布施発條工業所時代を築いた仲間では最後の独立になった。

昭夫が退職するときは「社長の右腕なのに、なぜ辞めるのか」と周囲から言われ苦しんだが、子供が小学校に入学する時期でもあったので、将来の子供のことを考えると、独立するには今がチャンスだった。

営業部門での仕事がほとんどだったので顧客とのつながりがあって、少々の仕事が入り手作業でできる内職のようなことから始めた。

 

 

作田社長は独立していく人たちのそれぞれに援助をした。

ある人は工場の世話、またある人は仕事、借入金の保証人などになって手を差し伸べてくれた。

作田社長の度量の深さと包容力のお蔭で、ここまでこれたと思う、とフセハツ卒業生は口をそろいて感謝の言葉をのべている。

 

それに、作田社長は人に優しいところがあった。永田一義が独立したあと、野球をしていて膝の皿を割って半年も入院したときに、作田社長は忙しい中、週に三回も見舞いにきて仕事のことを心配してくれた。

 

 

『フセハツ工業』から独立して巣立っていく者がいる一方で、八田専務は昭和45年(1970)に患っていた喘息がもとで亡くなった。根っからの酒好きが八田の命を縮めたのである。

 

 

永田昭夫が退職したことにより、本社の元締めがいなくなったので、作田為宣が本社に転勤して副社長に就任した。

本社では越岡の下で鍛えられた田熊輝男が営業部門を守っていた。

 

 

竹山保が退職し、為宣が去った大阪営業所を吉村健一がリードした。

 

大阪営業所は吉村健一のほか、営業に永友勇字、木村伸司、配送は中村茂夫、営業事務は高盛周子、それに貿易部門担当として英語が得意な林源次郎のほか竹原平八郎、吉井邦子、山田耕作、経理担当として平井高子と塚田正という陣容で個性に富んだ人たちが頑張っていた。





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フセハツ工業 大阪営業所1970

大阪営業所の社員たち(左から吉村健一、高盛、山田、塚田)

 

 

とくに林は当時すでに60歳を超えていたが、若いときにアメリカの親類を頼って渡米、日常生活の中で英語をマスターし、英会話しているときの林は若者のようであった。

 

 

フセハツ工業 海外視察1970

 海外視察をする作田社長(右)と林源次郎(左) 二人は一緒に海外視察によく行った

 

 

会社の人材が一挙に入れ替わろうとしていた。

 

昭和45年(1970)に開催された大阪万国博覧会で関西経済は好況で、当社の売上もぐんぐん伸びた。

 

売上目標に達すると、一人頭1500円が給料以外に支給された。

そして、売上と利益の差によって臨時の支給制度を設けて、大阪営業所は本社の倍ほどの金額が出た。あまりにも差額が大きかったので本社社員からクレームがついたほどだった。

 

 

関西経済が活況を呈している中、フセハツ工業も新しい人材が育ちつつあった。

 

 

大阪万博1970

大阪万国博覧会 エキスポ ’70 太陽の塔

 

 

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