『ばね作』創業の思い出 1945~1950
吉村篤フセハツ工業のはじまり
昭和20年(1945年)8月15日、戦争が終わった。作田忠雄は、小阪の中村金物店から独立して商売を始めた。
自宅近くに岸本発条があって、ばねと仕入れて金物と一緒に売ってみたら、たちまち売れてしまった。忠雄はばねに興味を持ち、作ってみようと思うようになった。
昭和21年(1946年)、布施市(現在の東大阪市)御厨55において、自宅を6坪の作業場と14.5坪の店に改造して、ばね製造業『ばね作』(後のフセハツ工業)として再スタートを切った。早速、二階建ての自宅の一階に旋盤を入れた。忠雄は30歳だった。
布施市御厨には、当時50メートル四方に岸本発条と太陽発条の二軒のばね屋があった。忠雄は注文を取ってきてもばねの作り方を知らなかったので、旋盤を使って作るのに苦労した。
現在の旋盤式コイリングマシンのように内部でセットされた構造ではなく、ベルトを通して手で調節するものだった。忠雄は岸本発条や太陽発条に作り方を教わりに何度も通った。
当時を知る人は「それはもう熱心で、成功する人はどこか他の人とは違っていた」と述懐している。二か月間は他社通いの連続だった。
自宅の一階で忠雄がコツコツとばねを作り、二階では赤子の長女が泣いている横を三歳の長男が走り回っていた。
昭和23年(1948年)、まだ食糧難の時代である。忠雄は食べ物を求めて、近在の農家に野菜を分けてもらいに回った。鍋・釜・金網・針金などの金物と野菜の物々交換である。
この年、従業員第1号の寺崎と第2号の裏野(後の東洋発條製作所社長)が『ばね作』で働くようになった。当時16歳である。
自転車に乗っての配達は裏野の仕事だった。当時、自転車は貴重だった。空気を入れないノーパンクタイヤの自転車は、とても重たい運搬車だった。
このころ、自転車のスタンドばねの仕事を定期的に受注するようになった。
材料は上本町四丁目の「鈴木鋼材」から仕入れた。少量の鋼材なら電車に乗って買いに行った。量が多い時は「鈴木鋼材」の舟橋さんがリヤカーを自転車で引張って、運んで来てくれた。
自転車のスタンドばねは、一日に500個ほど製造していた。ばねの「焼き(テンパー)」は、ドラム缶の中で薪を燃やして、その上に串を通したばねを焼き鳥のように並べて行った。
製材所で木のヘタを安く買ってきて、ナタで割ってテンパー用の薪にした。夏は猛烈に暑かった。
スタンドばねの自社生産が上手くいき、ようやく『ばね作』の商売が軌道に乗り始めた。世の中はまだ戦後の不景気が続いていた。
昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が勃発した。戦後経済の不景気にあえいでいた日本が、皮肉にも朝鮮戦争の特需で息をつけるようになった。
御厨の自宅はスペースが狭く、増え始めた受注量をこなせるだけの機械を設置できなかったので、自宅とは別に工場の建設が急がれた。
布施市川俣128番地に工場用地を見つけた。バラックの馬小屋がポツンと残っていた。最初に購入した土地は、現在の食堂が立っているスペースである。南側の道に沿って民家が六軒並んでいて、北側と西側は田んぼだった。
工業用地として購入した土地は道路よりも土地の方が低かったので、雨が降ったら水が溜まって身動きがとれなかった。
そこで、裏野が休みの日曜日ごとに、オート三輪で山の土を運んで来ては、土地を少しづつ高くしていった。
工場が完成した昭和25年(1950年)11月1日に『株式会社 布施発條工業所』が設立された。資本金20万円、従業員8名で新工場の操業を開始した。
『フセハツ工業』のフセハツとは、当時の社名『布施発條工業所』に由来している。
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