完全なる営業マンとは?【書評】『完全なる経営』A・マズロー著
吉村篤完全なる営業マンとは? 【書評】『完全なる経営』A・マズロー著
1.「欲求五段階説」に対する誤解
2.「自己実現」に対する誤解
3.完全なる営業マンとは?
4.完全なる経営
はじめに
エイブラハム・マズロー(1908~1970)は、アメリカの心理学者です。「欲求五段階説」や「自己実現」の学説で有名です。
本書は、マズローが著した唯一の経営書で、ドラッカーやマグレガーなど同時代の他の経営学者に大きな影響を与えました。
本書の中に、「進歩的なセールスパーソンと顧客」という章があります。大変示唆に富む内容ですので、ご紹介したいと思います。
「進歩的なセールスパーソンと顧客」の理解には、マズローの「欲求五段階説」と「自己実現」の理論が、一見関係なさそうですが深く関わっています。
これらの学説は批判され、一時は過去の理論とされましたが、今では再評価され、その価値が見直されています。21世紀を先取りした学説と評価されることもあります。
心理学やモチベーション理論の授業では、サラッと流されてしまうことの多いマズローの学説をもう一度考えてみましょう。また、そこから導き出される「完全なるセールスパーソン」とは、どのようなものなのでしょうか。
1.欲求五段階説に対する誤解
欲求五段階説とは、「人間は低次の欲求が満たされると、より高次の欲求を望むようになる」というものです。
五段階というのは、「生理的欲求」→「安全の欲求」→「所属と愛の欲求」→「承認(尊重)の欲求」→「自己実現の欲求」をいいます。ピラミッド型に上に登っていくイメージの図がよく使われます。
しかし、マズローはピラミッド型の図を用いたことはなく、機械的に下から上に順に上がると言っていませんし、五段階とも言っていません。マズローは「非構造化」を提唱していて、このような「構造化」された図式による教科書的説明は本人の意図とは違います。
マズローが言いたかったことは、『食べ物にも困る社会で、「自己実現」といっても無意味ではないか。まずは、食料が安定的に供給される社会を実現させるのが先だろう』という当たり前のことです。
高次だから良くて、低次だからダメとうことではなく、現実を客観的に見るための一つのモデルです。
マズローを理解するポイントは「社会の改善」という視点が常にあることです。「個人的な自己実現」だけでとらえると誤解を招きます。良い社会の前提として、普段働いている「職場(社会)」が良くならないといけないと考えています。
ドラッカーやマグレガーは、最も安定した社会を前提にして経営学を組み立てていますが、マズローは「そうでない社会(あるいは職場)ではどうするのか」という視点から批判しています。極めて現実的です。
さて、この段階説をセールスパーソンに当てはめると、どうなるのでしょうか。
会社の営業マンが全てが「自己実現」のレベルにあれば、売上目標を与えられなくても、上司が何も指示しなくても、自分でどんどん考えて会社の業績を伸ばしていきます。自身も「自己実現」していきます。そして、世の中に貢献していきます。世の中がどんどん良くなります。
しかし現実には、一定の売上目標を与えられ、外部からある程度「強制」されないと人間は動かないものです。それが現実です。むしろ、上司から目標を与えられ、適宜に叱咤激励されたり、指導されたりしたほうが働きやすいと感じる人が多いかもしれません。
このレベルの人は、「何も言わないから、自由にやれ」と言われるほうが、かえって戸惑うでしょう。実績も上がらないかもしれません。
目標が与えられれば仕事を一生懸命するのはまだ良いほうで、そんなのは「無視」して適当に給料だけもらっておけばよいという人も現実にいます。低次の欲求段階といえます。食えるだけで満足の段階に留まっている場合です。
そういう人がたくさんいる企業はおそらく倒産し、「食えるだけで満足」の人は結局職を失うでしょう。こうのような企業では「もの分かりの良い」リーダーが、目標も与えず厳しい指導もせずに、自由に伸び伸び仕事するよう部下に言ってもダメなのです。社会に貢献している企業とはいえません。
マズローは、現実を直視して、それぞれの場合に適した管理方法(会社の場合)が必要だと主張しています。それぞれの状況に応じたリーダーシップの在り方が求められます。
2.自己実現についての誤解
「自己実現」とはいったい何でしょうか。「自分のあこがれの職業につきたい」とか「自分の個人的な夢を実現させる」ことではありません。あるいは、山にこもって精神修行をすれば実現するというものでもありません。自分一人が「悟りの境地」に至ることが自己実現ではありません。
マズローのいう自己実現は、「社会の改善」に貢献していることが前提になります。社会への働きかけです。動的な概念です。
いきなり「社会の改善」はできませんので、より小さなコミュニティーである「職場(会社)の改善」を一歩一歩地道に積み重ねることで、世の中が良くなると考えている点が重要です。
仕事は人の生活を支える最も重要な場であるので、ここが良くならない限り世の中は良くならないのです。仕事によってしか、自己実現はありません。
自分の利益が「職場(会社)の利益」になり、「会社の利益」が「社会の利益」になるのが自己実現された世界です。自己の利益が他者の利益にもなる社会は、自己実現者が多い社会です。
マズローは自己実現した人の特徴を次のように箇条書きに非構造的にまとめています。自己実現を説明するための一例として述べているものです。
1.現実をより有効に知覚し、より快適な関係を保つ
2.自己、他者、自然に対する受容
3.自発性、単純さ、自然さ
4.課題中心的
5.プライバシーの欲求からの超越
6.文化と環境からの独立、能動的人間、自立
7.認識が絶えず新鮮である
8.至高なものに触れる神秘体験がある
9.共同社会感情
10.対人関係において心が広くて深い
11.民主主義的な性格構造
12.手段と目的、善悪の判断の区別
13.哲学的で悪意のないユーモアのセンス
14.創造性
15.文化に組み込まれることに対する抵抗、文化の超越
3.完全なる営業マンとは?
完全なる営業マンとは自己実現された営業マンです。マズローは、どのような営業マンを想定しているのでしょうか。
マズローが自己実現者について箇条書きしているのに倣って、本書で述べられている「完全なる営業マン」を「非構造的」に箇条書きしてみます。
・短期的な目先の利益を追わない。長期的な視点から判断を下す。
・顧客を騙したり、偽物(不良品)をつかませたりしない。
・顧客の繁栄を心から願っている。
・顧客のためなら、競業他社の製品も勧めることができる。
・賄賂や接待費用を予算に計上しない。
・当然のこととして、きちんとした製品知識を持っている。
・市場の動向や顧客のニーズ、自分の関わるビジネスや業界全体の動きを把握している。
・事実、公正無私、正直、真実、能率などをモットーとしている。情報は全て顧客に開示する。きれいごとではなく、長期的に見た場合、これらは自己に利益をもたらす。
・企業の目や耳であり、企業の代表者、あるいは移動する企業そのものとして自覚している。
・自己の利益のみを追求する一匹オオカミではなく、企業の代表者、顧客との仲立ちをする存在とみなしている。
・単に何かを売っている人ではなく、将来の製品革新・開発担当の副社長という自覚がある。
・自社の製品を信頼し、製品に愛着を持ち、それを誇れるような場合を前提としている。
・顧客と長期に渡って信頼関係を築きたいと願っている。
・むしり取るだけむしり取ろうという短絡的な考えをしない。そのような考えの悪質な顧客と取引をしない。
・自己と企業との結びつきを充分意識しており、企業ならびに他の社員との一体感を強く感じている。
・自己は顧客からのフィードバックを受け取るための感覚器官だと見ている。
・単に製品を販売するだけではなく、製品を改善し続けるために必要なフィードバックを客観的事実に基づいて収集する貴重な情報源になっている。
4.完全なる経営
企業が長期に渡って存続し、健全性を維持しながら成長するには、顧客との間に「駆け引きなし」の信頼関係を築く必要があります。
営業パーソンは、企業と顧客との関係構築に最も重要な働きをします。長期的な視点からの信頼関係構築が大事なのであって、目先の短期的売上は二次的なものに過ぎません。
また、営業パーソンは企業にとって目であり耳となって、販売以外の情報も企業にフィードバックします。営業パーソンが企業と一体感がなく、自己の利益のみを追求する一匹オオカミでは、自身の働く企業とこのような信頼関係を築けません。
経営管理でまず必要なことは、営業パーソンが誇れるような優れた製品(品質・納期・価格)を生産する工場をつくることが大前提となります。
次に、営業パーソンが情報を集めやすいような社内の支援環境の整備や、営業パーソンを通してフィードバックした情報を企業改善に素早く反映させる仕組みが必要です。
「完全なる営業パーソン」は、精神的に健康です(自己実現者の特徴 参照)。人間が成長し、精神の健康度が増すにつれ(いわゆる五段階説の段階が上がるにつれ)、競争を勝ち抜く手段としての進歩的管理が必要になります。
マズローは、全従業員の精神的健康の成長を促進し、各人の活動レベル(自己の利益が他者の利益にもなる活動)を向上させる専門部署を提唱しています(第九の副社長論)。
企業内や企業外の人たちとの関係が希薄な場合には(信頼関係がほとんどない場合)、その企業や従業員の精神的健康状態は悪いといえます。
健康的な人間、健康的な企業は、大勢の企業内外の人々と複雑に有機的に信頼関係によって繋がっており、外部環境の改善が自己の改善(利益)と一致しています。
このような状態の持続が企業の場合には長期的な繁栄に繋がり、個人の場合には自己実現に近い状態と考えられます。
より多くの人たちの生活を良くすることのできる企業や人間がマズローの目指す「自己実現」です。
「完全なるセールスパーソン」は、その実現の最前線にいるといえます。
『完全なる経営』A・マズロー著、金井壽宏 監訳、大川修二 訳、日本経済新聞出版社