<![CDATA[ばねとくらす]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/ Sun, 19 Apr 2026 20:11:34 +0900 Wed, 15 Apr 2026 10:04:58 +0900 CMS Blue Monkey http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss <![CDATA[社史『ばね物語』10 躍進(2)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/15/173
目次


ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所            社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


『フセハツ工業』の企業理念
 弾む原理を進化させ、
 小さくても大きな使命と責任感をもって
 社会に貢献すべし


躍進(2)受注ラッシュの先駆け

品質管理に試行のめざめ

昭和26年(1951)に30~40坪の工場を建てた。

自転車のスタンドのバネの仕事が下火になったきたころ、かわって傘バネの仕事が入ってきた。

傘バネは外径13mm、長さ100mmの押しバネだった。

足でクラッチを踏むと、旋盤の軸が回って芯金に鋼線を巻きつけ、タガネで切断し、両端の座巻をグラインダーで研削した。


ばね物語



焼き入れに薪を燃料としていたのでは、いい製品はできないということで、コークスを使ったところ火力が強すぎて、焼き過ぎとなり、バネは真っ白になってしまった。



ばね物語10-2



傘バネのほかには製釘機のバネ、ミシンの押しバネ、キックバネなどを製造し、照明がなくて真っ暗な仕事場で、毎晩11時近くまで残業した。


ばね物語



旋盤でバネを作る作業は危険が伴う。

鋼線を切断するときに端が少し膨れ、径が狂ってしまうのを手で止めるのだが、手の持っていくタイミングがずれたら、手袋ごと巻き込まれてケガをしてしまう。

ばね物語


ばね物語


ばね物語



>社史『ばね物語』9 躍進(1) 奄美群島の日本復帰

>お問い合わせはこちら


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Wed, 15 Apr 2026 10:04:58 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』9 躍進(1)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/10/172
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ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所            社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


『フセハツ工業』の企業理念
 弾む原理を進化させ、
 小さくても大きな使命と責任感をもって
 社会に貢献すべし


躍進(1)奄美大島の日本復帰

本土の密航も必要なし

奄美群島が昭和28年(1953)12月25日に日本へ復帰した。

奄同日付け朝日新聞夕刊の一面に「奄美全島、喜びにわく 午前零時、とどろく花火 街は日の丸の波にゆれる」という見出しで、奄美群島の日本復帰を報じた。

ばね物語



記事は「北緯27度線上に浮かぶ与論島、沖永良部島、徳之島、大島本島、喜界島の5つの島の23万住民の上におよんだ昭和21年2月2日以来8年間のアメリカの統治権はこの瞬間に終止符を打った。

太平洋戦争が敗戦の悪夢に終わったのが、日本本土より8年遅かったと島の人は言う。


ばね物語8-2.jpg



この日、群島は内地の春雨を思わせる暖かい雨にぬれて名瀬市をはじめ二十ヵ町村午前零時を期して一発の花火を打揚げ、サイレンを鳴らして全島民に喜びの瞬間を報じた。

名瀬市では雨の中に黒々と静まり返っていた各家庭のそこここからドーンと地鳴りのように歓声が起こった」と、歓喜の様子を伝えた。


ばね物語



奄美群島が日本に復帰したことによって、永田隆光のように“密航”状態で本土に渡る必要はなくなり、作田伸子のようにビザを申請することもなくなった。

ばね物語



>社史『ばね物語』8 創業(4) 奄美大島からの入社

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Fri, 10 Apr 2026 14:42:13 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』8 創業(4)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/03/171
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ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
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タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所            社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


『フセハツ工業』の企業理念
 弾む原理を進化させ、
 小さくても大きな使命と責任感をもって
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創業(4)奄美大島から永田隆光と伸子の入社

「密航」本土の遠さ

15歳のとき大阪に出てきた作田忠雄は、昭和26年(1951)3月には満35歳になっていた。

奄美大島を出てから20年の歳月が流れ、奄美大島で過ごした時間よりも、大阪で生活した時間の方が長くなった。

ばね物語8-1.jpg



作田忠雄の妻、タカヰの弟の永田隆光は昭和26年(1951)5月、米軍統治下にある奄美大島から大阪へ出ようと決心した。

奄美大島の生活は、山に木を伐りに行ったり、ササを刈ってきて普請したり、刈ってきたカヤを売って小遣いにしたり、荒れ地を耕してイモを植えた。

若い隆光にとっては単調な生活であった。

友人たちは奄美大島の生活が嫌になって、米軍基地の仕事を探しに沖縄に渡っていった。

忠雄の父、忠仁は「沖縄に行くぐらいなら、大阪の忠雄のところへ行け」と言った。

ばね物語8-2.jpg



米軍統治下にあって、日本本土へ渡るにはパスポートが必要な時代である。

渡航を禁止されていながらも、奄美大島から黒砂糖、鰹節を積んだ小型漁船が屋久島、鹿児島などに命がけで運んで、靴などの日用品と物々交換していた時代なのである。

ばね物語8-10.jpg



隆光が奄美大島を出発するとき、父親は線香を立てて、別れの杯を酌み交わした。

“密航船”に乗って隆光は島伝いに鹿児島を目指した。

口之島から屋久島の間が米軍統治下の境界線である。

この海域を突破できれば、本土への脱出は成功である。

ばね物語8-3.jpg



隆光の乗った小型漁船は口之島から夜の闇にまぎれて出帆した。

8時間かけて屋久島に到着した。

屋久島から鹿児島までは定期便があり、無地鹿児島に着いたので大阪へ電報を打った。

奥村輝義が大阪から鹿児島まで迎えに来てくれた。

ばね物語8-4.jpg



隆光は夢にまで見た大阪にやってきた。

姉のタカヰが大阪にいたので気持ちは楽だった。

しかし、実際に来てみると、『布施発条工業所』のある布施は奄美大島の名瀬よりもひなびたところで、大阪市内には焼け跡がまだ残っていて、殺伐とした風景が広がっていた。

のんびりとした奄美大島が懐かしく思い出され、隆光はホームシックになった。

大阪に来た歓迎の意味で、忠雄は隆光を天王寺動物園につれて行った。

奄美大島には動物園はなかった。

また、初めて観る大劇のOSKの華やかな踊りにも目を奪われ、感激した。

ばね物語8-5.jpg



大阪に着いて二、三日後に隆光は『布施発条工業所』に入社した。

仕事は鋼線を切る工程を最初に担当した。

働き始めて一か月ほど、隆光は御厨の作田忠雄の自宅に寝泊まりしたが、その後は火元責任者として工場に泊まるようになった。

ばね物語



昭和26年(1951)7月に、難波の大阪球場で関西初の夜間照明が設備された。

9月には大阪市立美術館でピカソ展が開かれ、12月には国際見本市館が開業した。

戦後の荒廃した大阪で、人々の生活に明かりがつき始めたところである。

ばね物語8-6.jpg



作田忠雄の妹、16歳の伸子は申請していたパスポートが1年かかってやっと出て、大阪に行こうとしていた。

伸子という名前は忠雄が付けた。

忠雄と伸子は20歳の年齢の開きがある。

タカヰと結婚するために忠雄が奄美大島に帰ってきたとき、伸子は6歳だった。

見ず知らずの兄を見て、伸子はとても恥ずかしかった。

やがて伸子が小学校に入学しようとするとき、大阪にいる忠雄からランドセルなど一揃いが送られてきた。

真新しい学用品をみて伸子は胸が躍り、入学する日を待ち遠しく思ったものだった。

ばね物語8-7.jpg



大阪へ行くと決まってから伸子は、1年間ほど父親に厳しく仕付けられた。

朝早く起きてまず家の周りを掃き、海岸から砂を三回ほど運んできて家のぐるりに撒いた。

続いて縁側の掃除をしたあと、ソロバンの練習をしてから学校へ行った。

大阪へ行くのは兄の事業を手伝うのが目的だから、朝、昼、夜の食事の前に「大阪のお兄さんが頑張っているのだから、お前も頑張らなければならない」と父親に聞かされてから箸を持った。

また、「大阪の兄の家に行っても、忠雄を兄と呼ばず、タカヰを姉さんと呼ばず、社長、奥さんと呼びなさい」と言われた。

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>社史『ばね物語』7 創業(3) 谷町営業所を開設

>社史『ばね物語』9 躍進(1) 奄美大島の日本復帰

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Fri, 03 Apr 2026 16:58:46 +0900
<![CDATA[ワイヤーリングの新設備が入りました]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/03/170
目次

ワイヤーリングの新設備が入りました

自動車用ワイヤーリング機の専用機が新しくなりました。

大口径の精密リングを製造する専用機です。

旧設備と交替になります。

弊社のオリジナル設備で、長年のノウハウが詰まった設備です。

旧設備よりコンパクトになり、より精密に、よりパワフルになりました。


新ワイヤーリング専用機

新ワイヤーリング専用機の設置の様子です。

ワイヤーリング専用機



ワイヤーリング専用機



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旧ワイヤーリング専用機

旧設備は1980年製造です。46年の長きにわたりお疲れ様でした。

旧ワイヤーリング機-1.jpg




旧ワイヤーリング機-2.jpg



ワイヤーリング専用機



>お問い合わせはこちら

旧ワイヤーリング専用機 製造動画




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Fri, 03 Apr 2026 14:53:08 +0900
<![CDATA[ばね屋のお便り2026年3月号]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/03/31/169
目次

ばね屋のお便り2026年3月号

大阪上本町は上町台地にあり、多くの坂があります。
古くから「天王寺七坂」と呼ばれており、写真は源聖寺坂です。
登り切った後の景気は最高でした!

いつもフセハツ工業メールマガジンをご覧いただきありがとうございます。
メルマガ担当の佐藤です。

季節も春になり暖かくなってきました。
大阪の桜も開花日を迎えたようです。
ポツパツと咲き始め、満開予想日は4/2になるとのことで、出歩くのが楽しみになりますね。

しかしながら、今年4-6月は全国的に高温傾向なあるとのことで、
5月でも真夏日の可能性があると二ユースで見ました。
今年も長い夏になりそうですが、今から準備を進めておくことが賢明そうですね……。

さて、今回のばねのお話は、ばねの分類と種類についてです。


ばね屋のお便り2026.2-2.jpg



ばねの分類と種類について

ばねは多種多様な種類があり、大きさもさあざまです。
ばねの分類としては、大別すると下記のようなものがあります。

(1)ばねの形状による分類
(2)ばねの材料による分類
(3)ばねの製造方法による分類
(4)ばねの特性による分類
(5)ばねの用途による分類

今回は「(1)ばねの形状による分類」のなかの「1.線形状のばね」についてお話しします。

線形状のばねについて
線形状のばねは、もっともよく見る形状のばねです。線形状の材料(線材)で製造したばねをいいます。「線ばね」といいます。

代表的な形状としては、圧縮コイルばね、引張コイルばね、ねじりコイルばね、線細工ばね、リングばね等があります。


圧縮コイルばね
主として圧縮荷重をして使用するコイル形状のばねです。一般的には「押しばね」という言い方をすることが多いです。


引張コイルばね
主として引張荷重をして使用するコイル形状のばねです。両端にフック加工があるのが特徴です。一般的には「引きばね」という言い方をすることが多いです。


ねじりコイルばね
主としてねじりモーメントを受けて使用するコイル形状のばねです。単に「ねじりばね」といったり、「トーション」や「キックばね」といったりすることもあります。


線細工ばね
線状の材料を使用したコイル形状以外の各種形状のばねをいいます。「線加工ばね」や「ワイヤーフォーミング」といったりもします。


リングばね
リングばねは、線細工ばねの一種でリング形状をしたものをいいます。もっともシンプルな形状の線ばねです。隙間のあるリングや、溶接タイプのリング、二重リング等のバリエーションがあります。

使途用途によって適切に使い分けることができれば、より効果的にばねを活用できますね!

それでは、来月号でお会いしましょう!!


>ばね技術情報 コラム「ばねの分類と種類(1)形状による分類


ばね屋のお便り





ばねに関するお問い合わせは下記から!!↓

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>ばね屋のお便り2026年2月号

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Tue, 31 Mar 2026 09:50:46 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』7 創業(3)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/03/30/168
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ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所            社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


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創業(3)谷町営業所を開設

喜ばれた加工の引き受け

昭和26年(1951)3月に、大阪市南区南桃谷6番地(現在の谷町7丁目1-20)の楠木通りに面した敷地25坪、延べ床面積40坪の2階建ての民家を借りて谷町営業所を開設した。

楠の大木が道の真ん中に立っているので、楠木通りと呼ばれていた。


ばね物語



楠木には“白蛇”が住んでいて神木とされ、道路が整備されたときも、伐られずに今日でも残っている。




楠木通りと交差する南北の道が谷町筋で、再開発前の谷町筋は車が対抗するのがやっとなぐらいの道幅で、機械屋や工具屋が軒を並べていて、地方から大勢の人たちがバネを買い求めにきた。

谷町営業所では長尺物の押しバネ、引きバネを吊るしての店頭販売、簡単な加工なども引き受けたら遠方から来るお客さんに大変喜ばれた。

ばね物語



ばね物語




こうして新しいユーザーを少しずつ増やしていった。初代の谷町営業所長は奥村輝義だった。


ばね物語




ばね物語



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Mon, 30 Mar 2026 17:08:21 +0900
<![CDATA[街パビ2026 工場見学]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/03/25/167
目次

街パビ 工場見学

街パビOSAKAは、工場見学を通じてものづくり中小企業の技術力や製品の魅力を知ってもらうため、大阪府内にある見学可能な工場や企業の情報を集約したポータルサイトです。

受入ができる工場・企業と見学希望者とのマッチングをサポートしています。

街パビ


お問い合わせは、MOBIO(ものづくビジネスセンター大阪)まで。

お問い合わせ factory@m-osaka.com

>街パビOSAKA

フセハツ工業 ばね工場見学

2026年3月25日(水) 『街パビ』工場見学を開催しました。

お子様や主婦の方、企業の方や、行政の方など様々な方が見学されました。

見学者の企業様から製品をプレゼントされました。

街パビ ばね工場見学


街パビ ばね工場見学



街パビ ばね工場見学


街パビ ばね工場見学



街パビ ばね工場見学



街パビ ばね工場見学



街パビ ばね工場見学



街パビ ばね工場見学



街パビ ばね工場見学


>MOBIO note 「街パビ」工場見学レポート 「フセハツ工業に訪問しました!」
 
 
>お問い合わせはこちら

>ばね工場見学のご希望の方へ]]>
Wed, 25 Mar 2026 17:32:17 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』6 創業(2)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/03/25/166
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ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
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タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
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創業(2)『株式会社 布施発条工業所』の設立

不況の中、朝鮮戦争でうるおう

昭和25年(1950)6月25日に朝鮮戦争が勃発した。

戦後経済の不況にあえいでいた日本が、皮肉にも朝鮮戦争の特需で息をつけるようになった。

御厨の自宅は作業スペースが狭く、増えはじめた受注量をこなせるだけの機械を設置できなかったので、自宅とは別に工場の建設が急がれた。

布施川俣128番地に工場用地を見つけた。バラックの馬小屋がぽつんと残っていた。

最初に購入した土地は、現在の事務所が建っているスペースである。南側に道に沿って民家が6軒並んでいて、北側と西側はたんぼだった。


ばね物語



工業用地として購入した土地は道路よりも土地の方が低かったので、雨が降ったら水が溜まって動きがとれなかった。

そこで、ゴミを入れて埋立ててもらうように頼んで道路より高くしたが、所詮は「ゴミ」で地面が固まらずゴボゴボだった。

裏野が、仕事が休みの日曜ごとに、オート三輪で山の土を運んできては、土地を少しづつ高くしていってくれた。



ばね物語


工場が完成した11月1日に『株式会社 布施発条工業所』が設立された。

資本金20万円、従業員8人で業務を開始した。

折しもこの日に、越岡元弘(のち、コシオカ産業 社長)が15歳で入社してきた。



ばね物語




ばね物語




ばね物語

 
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Wed, 25 Mar 2026 14:32:42 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』5 創業(1)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/03/24/165
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ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
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創業(1)『バネ作』を設立

何度も通った作り方の勉強

自宅近くに『岸本発条』があって、岸本発条から「バネ」を仕入れて、鍋・釜・バケツなどの金物を一緒に売ってみたら、たちまち売れてしまった。

金物類は『中村金物店』の人が全部買い取ってしまい、商売といえたかどうか。

忠雄は「バネ」に興味をもち、作ってみようと思うようになった。

昭和21年(1946)、自宅を6坪の作業場と14.5坪の店に改造して、バネ製造業『バネ作』の看板を掲げ製造業として再スタートした。

ばね物語



昭和22年(1947)2月23日に長女、多英子(たえこ)が生まれた。

自宅の一階で忠雄がこつこつとバネを作り、二階の住まいでは赤子の多英子が泣いている横を、3歳近い為宣(ためのぶ)が走り回った。



ばね物語


昭和23年(1948)、まだ食糧難の時代である。

忠雄は食べ物を求めて、近在の農家に野菜を分けてもらいに回った。

鍋・釜・金網・針金などの日用品と野菜の物々交換である。

懇意になった農家の一軒に裏野という家があり、ちょうど働き盛りの息子、春夫がいた。

忠雄は「春夫をうちで働かさないか」と誘ってみた。

中学校を卒業した浦野春夫(のち、東洋発條製作所 社長)は、昭和23年3月、16歳で『バネ作』で働くようになった。


ばね物語




裏野の先輩に寺崎がいた。寺崎が『バネ作』の従業員第1号である。裏野は2号ということになる。

布施市御厨には50メートル四方に『岸本発条』と『太陽発条』という2件バネ屋があった。

忠雄は注文を取ってきてもバネの作り方を知らなかったので、旋盤を使って作るのに苦労した。

現在の旋盤のような内部でセットされた構造ではなく、ベルトを通して手で調節するものだった。

忠雄は『岸本発条』や『太陽発条』に作り方を教わりに何度も通った。

後に入社する越岡元弘(のち、コシオカ産業 社長)の義兄である梅田正義(のち、梅田バネ 社長)は当時『太陽発条』に勤めていて、忠雄とは将棋仲間で親しかった関係から、元弘を忠雄に紹介した。

そして、梅田の妹の子が『フセハツ工業株式会社』現社長の吉村健一である。

梅田正義は「それはもう熱心で、成功する人はどこか他の人とは違っていた」と述懐している。



ばね物語



二か月間は他社通いの連続だった。

自転車に乗っての配達は裏野の仕事だった。

自転車は貴重なもので、空気を入れないノーパンクのタイヤで、重たい運搬車だった。



ばね物語




昭和23年(1948)ごろ、自転車のスタンドのバネの仕事が入ってきた。

材料の鋼材は上本町四丁目の『鈴木鋼材』から仕入れた。少量の鋼材なら電車に乗って買いに行った。

量が多いときは『鈴木鋼材』の舟橋さんが自転車でリヤカーを引っ張って運んできてきれた。

自転車のスタンドのバネは、一日に500個ぼど作っていた。

ドラム缶の中で薪を燃やして、その上に串に通したバネを焼き鳥のように並べて「焼き」を入れた。

製材所で木のヘタを安く買ってきて、ナタで割って薪にした。夏は猛烈に暑かった。


昭和23年(1948)10月9日に次女が生まれ、安偉子(あいこ)と名付けた。



ばね物語

 
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Tue, 24 Mar 2026 15:23:56 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』4 出発(3)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/03/18/164
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ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

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出発(3) 為宣の誕生

灯火管制の中で陣痛、長男の誕生

昭和19年(1944)7月4日、臨月を迎えたタカヰは、陣痛が起こり産婆さんに来てもらったが、灯火管制のために明かりをつけることができなかった。

電灯のカサの上にタオルをかけて、明かりが広がるのを防ぎ、タカヰは力いっぱい力んだが、お腹の中の赤子が大きくて、なかなか生まれなかった。

空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り渡った。

夜7時になってやっと、薄明りの中で産声をあげた。

息をつめるようにして暮らすこの世で、精一杯の声をあげて泣く赤子に生きていく希望をタカヰはひしひしと感じた。

目方が一貫目以上ある丸々と太った男児だった。名前を「為宣(ためのぶ)」とつけた。

母乳で半年育てたが、その後は配給の粉ミルクを飲ませた。

ばね物語4 粉ミルク



8月には大阪の学童疎開第一陣として、八つの小学校の児童が和歌山へと向かった。

サイパン基地を手中におさめた連合軍は、B29による本土襲来を開始した。


ばね物語4 B29



戦局も押し詰まり、故郷の奄美大島では米軍の機銃掃射と爆撃が激しくなった。

日本守備隊の江頭少尉は食糧が欠乏していて戦闘どころではなく、山から村に降りて来てはナンキンやイモを持って行った。

米軍の上陸に当たっては一発の弾も撃たず、山の防空壕へ逃げてしまった。

米軍の攻撃目標は日本軍の防空壕に絞られて、かえって村は助かった。

極洋丸という捕鯨船が難破していて、米軍機は難破船を狙って爆撃した。

米軍の空襲が激しくて田畑で作物が作れず、食糧不足でソテツの実や幹を食べたりもした。


ばね物語4 極洋丸

昭和20年(1945)1月3日に大阪市内に初めての空襲があった。

3月13日深夜から翌14日未明にかけて「B29」約90幾が大阪を大空襲、市内の13万世帯49万5000余人が被災した。


ばね物語4 大阪大空襲

 
朝は7時から夜10時ごろまで、タカヰは為宣をおんぶしながら日用品を売っていた。

背中から下ろされた為宣はバネをおもちゃがわりにして遊んでいた。

忠雄は外出することが多くなり、タカヰは空襲警報のサイレンが鳴るたびに為宣を背負って隣組の広場につくってあった防空壕に逃げ、間一髪で助かったこともあった。

毎日が家と防空壕の間の往復に明け暮れた。

食糧難の時代に、神戸に住んでいたおばさん、作田キヌが高価なカマボコなどをよく届けてくれた。

身内はありがたいものだと、タカヰは感謝した。

小阪駅近くの路線が爆撃されて、吹き飛んだ時は、生きた心地がしなかった。


ばね物語4-5 防空壕.jpg


8月15日、人々はそれぞれの思いを胸に玉音放送に耳を傾けた。

「朕深く世界の大勢と帝国の現状に鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ……」

という天皇陛下の声が、ラジオから雑音に交じって聞こえてきた。

「戦争は終わった」という思いで、作田忠雄・タカヰ夫妻の胸に開放感がわいた。


ばね物語4-6 玉音放送.jpg


戦争が終わって、ずっと後に、親類のものからの便りでは、奄美大島の名瀬に米軍が進駐してきたという。

女は強姦され男は殺されるという噂だったので、島の住民は脅えた。

ところが、進駐してきた米軍は子供をジープに乗せてくれるし、チューイン・ガムはくれるしで、噂とは大きな違いだった。



ばね物語4-7 奄美米軍進駐.jpg



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Wed, 18 Mar 2026 17:38:43 +0900