社史『ばね物語』12 躍進(4)
吉村 篤
ばね物語 フセハツ工業50年の歩み
フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。
社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。
株式会社東洋発条製作所 代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社 代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社 取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所 代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条 代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所 社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所 代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社 代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所 社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社 代表取締役 吉村健一
『フセハツ工業』の企業理念
弾む原理を進化させ、
小さくても大きな使命と責任感をもって
社会に貢献すべし
躍進(4)本格的受注でフル回転
健康器具もにわかに脚光
昭和29年(1954)ごろ、作田社長が健康器具の一つとして「エキスパンダー」を受注した。
昭和37年(1962)ごろになると、エキスパンダーの仕事は最盛期を迎えた。
エキスパンダーのバネ製造は工場の天井に滑車を設置し、「ろくろ」といって旋盤を改造した手巻き機械で1本ずつ長巻に巻取り、タガネで規定寸法に切断して寸法をそろえていた。
東京オリンピックのころには、最盛期をむかえ自動機を導入して対応した。
組立に臨時工を雇い入れたが、残業に残業を重ねても受注量をこなすことができなかった。
社員の世話をするタカヰを伸子が助けた。
御厨で作田一家と同居して、朝4時に起きて従業員の作業着を洗濯し、弁当をこしらえ、忠雄の子供たちを幼稚園に送ってから、会社の仕事についた。
売上と仕入れの経理は伸子が担当し、金銭出納簿は当初、寺崎が担当していた。その後、八田が引き継いだ。
伸子は経理学校にも行かず、独学で経理を覚えていった。寝床につけるのは夜中の1時、2時になってからだった。
下積みの苦労を苦労とも思わなかったのは、父の忠仁が、大阪に行っても耐えられるように伸子を厳しく鍛えたからだった。
昭和32年(1957)から翌年にかけて、「ホッピング」といって、バネの反動を利用して地面をピョンピョン飛び跳ねる遊戯道具が流行し始めた。
ホッピングのバネは線径が太く、1個の重量も重たかった。それを1日に1000個手巻きしていたので、作業者の手はグローブのように腫れ上がった。
焼き入れはせず生地のままメッキして販売したが、それでもお客さんは前金をもって工場の前に列をなした。
だが、流行ものの宿命だろう、ブームはたちまち過ぎ去った。
倉庫に溢れかえっていたホッピングのバネの在庫を仕方なくスクラップにした。
ホッピングは打ち上げ花火のような商品であった。
傘バネに加えてホッピングのバネの増産に合わせ、男性9人、女性6人の臨時工を増員、正社員と合わせて25人とほかに内職先を確保して体制を整えた。
臨時工の中に裏野の兄の学校の友達である吉川晋吾がいた(後の工場長)、裏野の紹介で働いた吉川は実直で器用であったので4月から正社員として入社した。
裏野が臨時工たちのまとめ役で、人集めと賃金交渉など矢面にたった。
給料日は毎月1日と15日の2回で、休みは月2日としたが、ほとんど休むことはなかった。
洋傘は自動開きが流行し始め、昭和30年(1955)からジャンプ傘メーカー、折り畳み傘メーカーからの受注量が増え始めた。
当社には自動機は1台しかなかったので、フル回転で稼働させるため、この機械がよく故障して困った。
簡単な細かい作業の傘バネは内職に回した。
通勤している社員は夕方6時に作業を終えてから、傘バネを自宅に持ち帰り家族ぐるみで深夜まで内職をした。
会社で寝泊まりしている社員たちは、夕食を終えてから工場の片隅で深夜まで作業した。
うなぎ登りに増えてきた仕事量をこなす原動力は、作田忠雄社長の現場に入っての頑張りと臨時工や社員たちの深夜にまで及ぶ作業だった。
受注量が増え続け、事務所と工場が離れていてはスムーズ対応できないと考えた社長は、工場敷地内に事務所を建設した。
昭和32年(1957)に完成、2階部分を寮にして8~10畳の部屋を2間つくった。
さらに昭和33年(1958)、工場に隣接して作田社長の自宅が完成した。
工場は目の回るような忙しさだったので、近距離に自宅が建ったことは社長にとって少しでも能率的に仕事を運ぶのに助かった。
昭和36年(1961)に洗濯ハサミ用のピンチリングの製造が最盛期となり、開発した専用機数十台がフル稼働して、月産1000万個以上を供給していて、焼き入れがネックとなり昭和44年(1969)に大型電気炉を導入して省力化が図られた。
また、昭和37年(1962)ごろ玩具業界から、おもちゃのピストルのバネの注文が入った。
バネの耐用回数を検査する機械を開発したが、受注したメーカーの社長は自らピストルを常時手に持って、寝ても覚めても撃ち続けて耐用回数をチェックするほどの几帳面な人だった。
滑りをよくするためにロウを塗ってほしいと要望されて、釜いっぱいにロウを溶かしてバネを浸けた。