社史『ばね物語』2 出発(1)
吉村 篤
ばね物語 フセハツ工業50年の歩み
フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。
社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。
株式会社東洋発条製作所 代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社 代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社 取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所 代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条 代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所 社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所 代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社 代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所 社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社 代表取締役 吉村健一
『フセハツ工業』の企業理念
弾む原理を進化させ、
小さくても大きな使命と責任感をもって
社会に貢献すべし
出発(1) 奄美大島から大阪へ
お付き合いは商いの基本
作田忠雄は大正5年(1916)11月23日、父・忠仁(ただひと)と母・富士松との間に鹿児島県大島郡龍郷村(現在龍郷町)幾里で産声をあげた。
作田家は豆腐屋を営みながら、農業と養豚で生計を立てていた。
忠仁は村で最初に二毛作をはじめるほど開拓精神に富んだ人であり、また村の役員をしていたこともあり、村の人々が牛をつぶすのにも彼の許可が必要だった。
忠雄は幼いことから妹を背負い、豆腐を天秤棒で担いで売りに歩いた。
漁に出た船が大漁だったら旗をなびかせて帰ってくるように、忠雄は豆腐が売り切れたら鉦(かね)を鳴らしながら帰宅した。
カラン、カランとのどかに鳴り渡る鉦の音を聞いて、作田家の人々はホッとした。
鉦を鳴らさずに帰ってき忠雄の姿は、豆腐が売れずにどこか寂しげに見える。
豆腐を売りながら、忠雄は人との付き合いが商売の基本であることを自然に身につけたのである。
龍郷村の人々は、奄美大島で一番大きな町である名瀬市まで、4.5里(約20キロ)の道程を日帰りで往復した。
忠雄は裸足で学校に通い、畑の農作業や豚の飼育を手伝った。
海が近いので魚屋豊かな海産物が食事を賑わした。

尋常小学校を卒業した忠雄は、昭和6年(1931)に数え15歳で大阪に出た。
奄美大島選出の金井衆議院議員の世話で、布施市小阪にあった『中村金物店』に奉公した。
『中村金物店』は小阪では1、2を争う金物店だった。
同郷の友人が忠雄と一緒に奉公したが、途中で店を辞めてしまった。
心細くなった忠雄は両親に手紙を出して辞めたい意思を伝えたら、父親は「辞めてはいけない、ひとところで勤めなさい」と言ってきた。
忠雄は『中村金物店』を辞めずに働き続け、「商い」の方法を覚えていった。

満州事変が9月に勃発して、戦時色がしだいに濃くなっていった。
全国の失業者が40万人を突破して失業統計開始以来の最高を記録、暮らしにくい社会になってきた。
昭和11年(1936)満20歳のとき、忠雄は兵隊検査のために奄美大島へ帰った。
海が美しい久しぶりの故郷だった。
布施の町は東に生駒山を望むが、海は遠く潮の香りはしない。
もし、忠雄が奄美大島に住み続けていたら、青年団に入り相撲や「種降ろし」という秋祭りにも興じていただろう。
太鼓、蛇皮線(じゃびせん)を奏しながら、祝儀を集めるために村の家を一軒ずつ回り、二晩踊り続け、酒とご馳走で腹一杯になるような楽しい青年時代を送っていたであろう。
しかし、奄美大島の産業はサイトウキビから作る黒砂糖、大麦と小麦を中心にした農業と大島紬の特産品があるだけの限られたものだった。
忠雄は大阪で働いて家計を助け、将来は自ら店をもって商売するのが、少年時だから抱いていた夢であった。
早く独立できるように頑張らねばならないと、自分自身を叱咤激励してきた。