<![CDATA[ばねとくらす]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/ Sat, 16 May 2026 11:57:13 +0900 Mon, 11 May 2026 10:59:51 +0900 CMS Blue Monkey http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss <![CDATA[社史『ばね物語』14 躍進(6)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/05/11/179
目次


ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所            社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


『フセハツ工業』の企業理念
 弾む原理を進化させ、
 小さくても大きな使命と責任感をもって
 社会に貢献すべし


躍進(6)60年代の激動期を乗り切る

長旅に耐えて来阪した父の死

昭和34年(1959)の岩戸景気によって、『布施発条工業所』は資本金を続けて増資した。

昭和35年(1960)6月に260万円に、昭和37年(1962)には650万円に増資した。

当社にとっても明るい話題の多いころだった。



ばね物語14



この年、越岡元弘と作田伸子がめでたく結ばれた。

結婚に当たって作田社長は、妹の伸子のために嫁入り道具をそろえ、父親がわりとなって世話をした。

忠雄は伸子に長年、苦労をかけたという気持ちと妹の幸せを心から喜んでいた。

伸子は16歳で大阪に来て以来、現在まで一度も故郷の奄美大島に帰ったことがない。

昭和32年(1957)12月末、母親の冨士松が病状に伏していたので帰郷して世話をしたかったが、大阪から奄美大島まで船で2日間もかかり、しかも週2便しかなく、押し寄せてくる仕事で手がはなせず、とても時間をさくことができなかった。

翌年の昭和33年(1958)1月1日に母、冨士松は66歳で永眠した。


ばね物語14



父親の忠仁は昭和44年(1969)6月、大阪の病院で治療してもらうという口実で奄美大島から大阪に出て来た。

忠仁は大阪への長旅によく耐えられたものだと思うくらい衰弱していた。

最後に一目みんなの顔を見たかったのだろう。

その年の夏休みには越岡一家で奄美大島に帰ることを忠仁と約束をしていたが伸子自身の体調がすぐれず、帰郷できなかった。


ばね物語14



昭和44年(1969)11月7日、訃報が届いた。

作田社長は海外出張中で伸子自身もいまだ体調拡幅せず、夫の越岡元弘が代理で奄美大島へと向かった。

父、忠仁は77歳で永眠した。

忠仁は他人に厳しい人だったが、自分に対しても厳しい人だった。



ばね物語14




ばね物語14




ばね物語14




ばね物語14




ばね物語14



>社史『ばね物語』13 躍進(5) 谷町営業所の充実

>お問い合わせはこちら 


監修者


フセハツ工業株式会社
代表取締役社長
吉村篤

2000年、ばねの総合メーカー「フセハツ工業株式会社」に入社。2013年、四代目代表取締役社長に就任。

  • 一般社団法人 日本ばね工業会 会員
  • 日本ばね学会 会員
  • 公益社団法人 大阪府工業協会 評議員
  • 東大阪市工業協会 理事
  • 東大阪商工会議所 議員
  • 特定非営利法人 新共創産業技術支援機構(ITAC)理事
  • 一般社団法人 大阪溶接協会 会員
  • 一般社団法人 布施交通安全自動車協会 理事

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Mon, 11 May 2026 10:59:51 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』13 躍進(5)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/05/07/178
目次


ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所            社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


『フセハツ工業』の企業理念
 弾む原理を進化させ、
 小さくても大きな使命と責任感をもって
 社会に貢献すべし


躍進(5)谷町営業所の充実

マンツーマンで「商品知識」を

昭和26年(1951)に開設した谷町営業所は、商品の情報収集のためには欠かせないアンテナの役目を果たしてきた。

三代目所長を継いだ永田昭夫が営業の最前線にいた。

谷町営業所に配属された昭和30年(1955)、営業所の二階建ての建物は借家で二階には家主が住んでいた。

4年後の昭和34年(1959)に買い取って二階で寝泊まりできるようにして、昭和36年(1961)まで昭夫が住んだ。


ばね物語



永田昭夫は二代目所長の藤井章からバネのノウハウを教えてもらっていた。

自転車に乗って顧客の新規開拓に回った。

谷町営業所では小売の現金商売が多く、その日の売上が住み込み社員たちの生活費となっていた。

雨が降るとお客の足が遠のき、現金が手元に集まらないので、前に注文を聞いていたものを、わざわざ雨の日に配達して現金を集めた。

そして、売上の多い日にはタカヰはホッとした表情になった。

藤井は昭和34年(1959)に独立して『東京発条』を創業した。


ばね物語13



昭和34年(1959)に竹山保が、月に1、2便しかない船で天保山埠頭に降り立った。

天保山には姉の良子が迎えにきてくれていた。

良子は昭和31年(1956)に大阪へ出てきて美容師をしていて、すでに永田隆光と結婚していた。

竹山保と作田忠雄の関係は、母親の冨士松の妹の子供が「保」で、従兄弟同士の間柄である。


ばね物語13



竹山は入社してすぐ谷町営業所の配属になった。

それというのも忠雄が「これからは営業の時代だ。物づくりよりも営業の方が将来性がある」と言って、竹谷は谷町営業所に配属され、営業所の二階で寝泊まりした。

手取りは2000円からスタートして、三年後に1万円になった。キツネうどん1杯15円の時代である。

谷町営業所の近くにある空堀商店街へ初めて買い物に行ったとき、奄美大島の生活習慣そのままに裸足で出掛けて、帰ってきたら昭夫に叱られた。

ばね物語13



竹山は作田社長からマンツーマンで「商品知識」を教育された。

店頭で小売をする一方で、自転車に乗って新規開拓に回った。

新規開拓できた会社としては、車両関係の『新明和』、消防関係の『ヤマト消火器』、淀川区にある『八田工業』などをターゲットにして成果が上がった。

外回りは竹山がして、所長の昭夫は店で客の対応をした。

竹山にとって最大の成果は、大阪大学工学部出身者が多い『松下冷機』の仕事をこなしたことが、大きな自信につながった。


ばね物語13



谷町営業所には兵庫県の三木、加古川からは金物のバネ、三重県の津、四日市からは工具のバネ、奈良県の大和高田からはメリヤスの織機のバネの注文が多かった。

ばね物語13




ばね物語13




ばね物語13




ばね物語13




ばね物語13



>社史『ばね物語』12 躍進(4) 本格受注でフル回転

>社史『ばね物語』14 躍進(6) 60年代の激動期を乗り切る

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監修者


フセハツ工業株式会社
代表取締役社長
吉村篤

2000年、ばねの総合メーカー「フセハツ工業株式会社」に入社。2013年、四代目代表取締役社長に就任。

  • 一般社団法人 日本ばね工業会 会員
  • 日本ばね学会 会員
  • 公益社団法人 大阪府工業協会 評議員
  • 東大阪市工業協会 理事
  • 東大阪商工会議所 議員
  • 特定非営利法人 新共創産業技術支援機構(ITAC)理事
  • 一般社団法人 大阪溶接協会 会員
  • 一般社団法人 布施交通安全自動車協会 理事





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Thu, 07 May 2026 16:19:45 +0900
<![CDATA[ばね屋のお便り2026年4月号]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/28/177
目次

ばね屋のお便り2026年4月号

扇町公園の夜桜のライトアップです。

人がたくさんいたため長居はできませんでしたが、春を感じることができました!

いつもフセハツ工業メールマガジン「ばね屋のお便り」をご覧いただきました誠にありがとうございます。

メルマガ担当の佐藤です。

暖かい日が多くなり、過ごしやすくなってきました。

休日に窓を開けて風を受けながらする昼寝が格別です(^^ ♪


ばね屋のお便り2026.2-2.jpg



モノづくり体験教室「活動レポート2025」に掲載しました!

NPO法人 東大阪地域活性化支援機構の「活動レポート2025」に、フセハツ工業の「モノづくり体験教室」が掲載されました。

色画用紙で『虹色のばね』をつくる教室です。仕組みとしては、玩具のスリンキーと同じですね。

スリンキーは、ばねが波打つようにはたらき、ユニークな動きになります。

完成した『虹色のばね』を坂に転がして遊ぶときは、いつも大変盛り上がります。

ばね屋のお便り2026.2-2.jpg



この取り組みは、SDGs(持続可能な開発目標)モノづくり体験として、モノづくりの町、東大阪の小学校で約200人の生徒さんたちに、「モノづくり体験教室」を行っています。

今後ともよろしくお願い致します!


活動レポート2025は下記のリンクより記事をご覧ください。

>モノづくり体験教室 活動レポート225


下記リンク先はYouTubeショート動画になります。音量にご注意ください。

>虹色ばねの紹介



ばね屋のお便り



~5月大型連休のお知らせ~

誠に勝手ながら下記に日程をゴールデンウイーク期間の休業とさせていただきます。

2026年4月29日(水)~2026年5月6日(水)

※4月28日(火)、5月7日(木)は通常通り営業しております。

休業期間中は、皆さまに大変ご迷惑をお掛けすることと存じますが

何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。


ばねに関するお問い合わせは下記から!!↓

>お問い合わせはこちら

>ばね屋のお便り2026年3月号

>「ばね屋のお便り」アーカイブ

>メルマガ「ばね屋のお便り」登録はこちら

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Tue, 28 Apr 2026 15:54:15 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』12 躍進(4)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/28/176
目次


ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
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フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


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 弾む原理を進化させ、
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躍進(4)本格的受注でフル回転

健康器具もにわかに脚光

昭和29年(1954)ごろ、作田社長が健康器具の一つとして「エキスパンダー」を受注した。

昭和37年(1962)ごろになると、エキスパンダーの仕事は最盛期を迎えた。

エキスパンダーのバネ製造は工場の天井に滑車を設置し、「ろくろ」といって旋盤を改造した手巻き機械で1本ずつ長巻に巻取り、タガネで規定寸法に切断して寸法をそろえていた。


ばね物語



東京オリンピックのころには、最盛期をむかえ自動機を導入して対応した。

組立に臨時工を雇い入れたが、残業に残業を重ねても受注量をこなすことができなかった。



ばね物語12



社員の世話をするタカヰを伸子が助けた。

御厨で作田一家と同居して、朝4時に起きて従業員の作業着を洗濯し、弁当をこしらえ、忠雄の子供たちを幼稚園に送ってから、会社の仕事についた。

売上と仕入れの経理は伸子が担当し、金銭出納簿は当初、寺崎が担当していた。その後、八田が引き継いだ。

伸子は経理学校にも行かず、独学で経理を覚えていった。寝床につけるのは夜中の1時、2時になってからだった。

下積みの苦労を苦労とも思わなかったのは、父の忠仁が、大阪に行っても耐えられるように伸子を厳しく鍛えたからだった。



ばね物語12



昭和32年(1957)から翌年にかけて、「ホッピング」といって、バネの反動を利用して地面をピョンピョン飛び跳ねる遊戯道具が流行し始めた。

ホッピングのバネは線径が太く、1個の重量も重たかった。それを1日に1000個手巻きしていたので、作業者の手はグローブのように腫れ上がった。

焼き入れはせず生地のままメッキして販売したが、それでもお客さんは前金をもって工場の前に列をなした。

だが、流行ものの宿命だろう、ブームはたちまち過ぎ去った。

倉庫に溢れかえっていたホッピングのバネの在庫を仕方なくスクラップにした。

ホッピングは打ち上げ花火のような商品であった。

ばね物語12




傘バネに加えてホッピングのバネの増産に合わせ、男性9人、女性6人の臨時工を増員、正社員と合わせて25人とほかに内職先を確保して体制を整えた。

臨時工の中に裏野の兄の学校の友達である吉川晋吾がいた(後の工場長)、裏野の紹介で働いた吉川は実直で器用であったので4月から正社員として入社した。

裏野が臨時工たちのまとめ役で、人集めと賃金交渉など矢面にたった。

給料日は毎月1日と15日の2回で、休みは月2日としたが、ほとんど休むことはなかった。

ばね物語12





洋傘は自動開きが流行し始め、昭和30年(1955)からジャンプ傘メーカー、折り畳み傘メーカーからの受注量が増え始めた。

当社には自動機は1台しかなかったので、フル回転で稼働させるため、この機械がよく故障して困った。

簡単な細かい作業の傘バネは内職に回した。

通勤している社員は夕方6時に作業を終えてから、傘バネを自宅に持ち帰り家族ぐるみで深夜まで内職をした。

会社で寝泊まりしている社員たちは、夕食を終えてから工場の片隅で深夜まで作業した。

うなぎ登りに増えてきた仕事量をこなす原動力は、作田忠雄社長の現場に入っての頑張りと臨時工や社員たちの深夜にまで及ぶ作業だった。

ばね物語




受注量が増え続け、事務所と工場が離れていてはスムーズ対応できないと考えた社長は、工場敷地内に事務所を建設した。

昭和32年(1957)に完成、2階部分を寮にして8~10畳の部屋を2間つくった。

ばね物語12





さらに昭和33年(1958)、工場に隣接して作田社長の自宅が完成した。

工場は目の回るような忙しさだったので、近距離に自宅が建ったことは社長にとって少しでも能率的に仕事を運ぶのに助かった。


ばね物語12





昭和36年(1961)に洗濯ハサミ用のピンチリングの製造が最盛期となり、開発した専用機数十台がフル稼働して、月産1000万個以上を供給していて、焼き入れがネックとなり昭和44年(1969)に大型電気炉を導入して省力化が図られた。

また、昭和37年(1962)ごろ玩具業界から、おもちゃのピストルのバネの注文が入った。

バネの耐用回数を検査する機械を開発したが、受注したメーカーの社長は自らピストルを常時手に持って、寝ても覚めても撃ち続けて耐用回数をチェックするほどの几帳面な人だった。

滑りをよくするためにロウを塗ってほしいと要望されて、釜いっぱいにロウを溶かしてバネを浸けた。


ばね物語12




>社史『ばね物語』11 躍進(3) 永田兄弟の入社

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監修者


フセハツ工業株式会社
代表取締役社長
吉村篤

2000年、ばねの総合メーカー「フセハツ工業株式会社」に入社。2013年、四代目代表取締役社長に就任。

  • 一般社団法人 日本ばね工業会 会員
  • 日本ばね学会 会員
  • 公益社団法人 大阪府工業協会 評議員
  • 東大阪市工業協会 理事
  • 東大阪商工会議所 議員
  • 特定非営利法人 新共創産業技術支援機構(ITAC)理事
  • 一般社団法人 大阪溶接協会 会員
  • 一般社団法人 布施交通安全自動車協会 理事

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Tue, 28 Apr 2026 15:09:44 +0900
<![CDATA[モノづくり体験教室 活動レポート2025]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/22/175
目次

モノづくり体験教室 活動レポート2025

NPO法人 東大阪地域活性化支援機構の「活動レポート2025」に、フセハツ工業の「モノづくり体験教室」が掲載されました。

色画用紙で『虹色のばね』をつくる教室です。毎年、実施しています。

今年度は、東大阪市立楠根小学校と藤戸小学校の4クラス、114人の児童のみなさんと『虹色のばね』のモノづくり体験教室を実施しました。

完成した『虹色のばね』を坂に転がして遊ぶときは、いつも大変盛り上がります。

モノづくりの楽しさを今後も伝え続けていきたいと思います。


>NPO法人 地域活性化支援機構 活動レポート2025



モノづくり体験教室



モノづくり体験教室




モノづくり体験教室




旧ワイヤーリング機-2.jpg



モノづくり体験教室



>虹色ばねの動画はこちら


>NPO法人 東大阪地域活性化支援機構

>モノづくり体験教室 活動レポート2025

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フセハツ工業株式会社
代表取締役社長
吉村篤

2000年、ばねの総合メーカー「フセハツ工業株式会社」に入社。2013年、四代目代表取締役社長に就任。

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Wed, 22 Apr 2026 10:56:13 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』11 躍進(3)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/22/174
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ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所            社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


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躍進(3)永田兄弟の入社

だれもが深夜まで仕事仕事

奄美にいたころの永田昭夫・一義兄弟にとって、タカヰは姉さんのようなものだった。

一義が3歳のとき、父親が32歳で破傷風のために亡くなり、母親はその前年に亡くなっていた。

タカヰの父親、永田隆市に幼い昭夫と一義は引き取られ、タカヰの弟の隆光と兄弟のように一緒に育った。

昭夫は中学校を卒業してから一年ほど奄美大島にいたが、大島では教師になるか、役所に勤めるか、警察官になるかしか生計のたてようがなかった。

すでに両親は他界していたが母親の出身地、千葉県に祖母が健在だったので、東京へ行って、夜学に通っていた。

この年の暮れに忠雄から「大阪に遊びにおいで」といって、書留で4,000円が送られてきた。

東京と大阪間の交通費が2,000円の時代である。

「大阪でも夜学は通えるよ」と手紙に書き添えてあった。

祖母に相談したところ、「お金を送り返しなさい」と言われたが、一度様子を見に大阪に行くことにした。


ばね物語



昭夫は作田忠雄の母親(冨士松)の弟(正夫)の息子で、忠雄とは従弟同士の間柄であった。



ばね物語11



昭和29年(1954)暮れ、昭夫は大阪駅のプラットフォームに降り立った。

永田隆光が迎えに来ているはずなのに、会えなかった。

縁戚の者が曽根崎警察署に勤務していると聞いていたので、『布施発条工業所』までの道順を尋ねに行ったら、布施警察署へ行けばいいと教えてくれた。

作田忠雄の工場は布施警察署の近くだった。


ばね物語11



工場内あった平屋に隆光と一緒に寝泊まりして、朝食は御厨の事務所まで歩いて行って摂り、自転車に乗って谷町の営業所へ通った。

仕事が終わったあと夜学に通い、学校が終わって帰ると夜食を残しておいてくれていた。

みんな夜遅くまで仕事をしていたので、学校へ行くのに気がひけてならなかったそうである。


ばね物語11


一方、永田昭夫の弟の一義が、昭和30年(1955)の暮れに名瀬港から船に乗って神戸に着いた。

兄の昭夫が迎えに来てくれていた。

一義は奄美大島の名瀬でパン屋に勤めていて、給料4,000円のとき、作田社長は大阪までの船賃として6,000円を送ってくれていた。


ばね物語11


布施に来てみたら名瀬よりも閑散としていて、寂しいところだった。

布施に来た最初の正月、奈良公園に連れて行ってもらった。

始めて行った奈良には寺社仏閣があちこちにあり、奄美大島では見ることのできない落ち着いた雰囲気だった。

鹿が奈良公園に中を群れをなして、ゆったりと歩いている景色は、どこか異国に来たような気がしたという。

また、越岡と兄の昭夫と三人で天王寺動物園に行き、大劇の華やかなショーを観劇すると、大阪もまんざら悪くはないなと思えた。


ばね物語11


一義は入社して線出しの仕事から始め、ホッピングのバネの先をグラインダーで研削した。

そのころの作田社長は昼は背広、ネクタイ姿で営業に回り、夜は夜で作業着に着替えて深夜まで仕事をしていた。


ばね物語11



>社史『ばね物語』10 躍進(2) 受注ラッシュの先駆け

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フセハツ工業株式会社
代表取締役社長
吉村篤

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Wed, 22 Apr 2026 09:43:06 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』10 躍進(2)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/15/173
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ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

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躍進(2)受注ラッシュの先駆け

品質管理に試行のめざめ

昭和26年(1951)に30~40坪の工場を建てた。

自転車のスタンドのバネの仕事が下火になったきたころ、かわって傘バネの仕事が入ってきた。

傘バネは外径13mm、長さ100mmの押しバネだった。

足でクラッチを踏むと、旋盤の軸が回って芯金に鋼線を巻きつけ、タガネで切断し、両端の座巻をグラインダーで研削した。


ばね物語



焼き入れに薪を燃料としていたのでは、いい製品はできないということで、コークスを使ったところ火力が強すぎて、焼き過ぎとなり、バネは真っ白になってしまった。



ばね物語10-2



傘バネのほかには製釘機のバネ、ミシンの押しバネ、キックバネなどを製造し、照明がなくて真っ暗な仕事場で、毎晩11時近くまで残業した。


ばね物語



旋盤でバネを作る作業は危険が伴う。

鋼線を切断するときに端が少し膨れ、径が狂ってしまうのを手で止めるのだが、手の持っていくタイミングがずれたら、手袋ごと巻き込まれてケガをしてしまう。

ばね物語


ばね物語


ばね物語



>社史『ばね物語』9 躍進(1) 奄美群島の日本復帰

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  • 特定非営利法人 新共創産業技術支援機構(ITAC)理事
  • 一般社団法人 大阪溶接協会 会員
  • 一般社団法人 布施交通安全自動車協会 理事



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Wed, 15 Apr 2026 10:04:58 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』9 躍進(1)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/10/172
目次


ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所            社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


『フセハツ工業』の企業理念
 弾む原理を進化させ、
 小さくても大きな使命と責任感をもって
 社会に貢献すべし


躍進(1)奄美大島の日本復帰

本土の密航も必要なし

奄美群島が昭和28年(1953)12月25日に日本へ復帰した。

奄同日付け朝日新聞夕刊の一面に「奄美全島、喜びにわく 午前零時、とどろく花火 街は日の丸の波にゆれる」という見出しで、奄美群島の日本復帰を報じた。

ばね物語



記事は「北緯27度線上に浮かぶ与論島、沖永良部島、徳之島、大島本島、喜界島の5つの島の23万住民の上におよんだ昭和21年2月2日以来8年間のアメリカの統治権はこの瞬間に終止符を打った。

太平洋戦争が敗戦の悪夢に終わったのが、日本本土より8年遅かったと島の人は言う。


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この日、群島は内地の春雨を思わせる暖かい雨にぬれて名瀬市をはじめ二十ヵ町村午前零時を期して一発の花火を打揚げ、サイレンを鳴らして全島民に喜びの瞬間を報じた。

名瀬市では雨の中に黒々と静まり返っていた各家庭のそこここからドーンと地鳴りのように歓声が起こった」と、歓喜の様子を伝えた。


ばね物語



奄美群島が日本に復帰したことによって、永田隆光のように“密航”状態で本土に渡る必要はなくなり、作田伸子のようにビザを申請することもなくなった。

ばね物語



>社史『ばね物語』8 創業(4) 奄美大島からの入社

>社史『ばね物語』10 躍進(2) 受注ラッシュの先駆け

>お問い合わせはこちら



監修者


フセハツ工業株式会社
代表取締役社長
吉村篤

2000年、ばねの総合メーカー「フセハツ工業株式会社」に入社。2013年、四代目代表取締役社長に就任。

  • 一般社団法人 日本ばね工業会 会員
  • 日本ばね学会 会員
  • 公益社団法人 大阪府工業協会 評議員
  • 東大阪市工業協会 理事
  • 東大阪商工会議所 議員
  • 特定非営利法人 新共創産業技術支援機構(ITAC)理事
  • 一般社団法人 大阪溶接協会 会員
  • 一般社団法人 布施交通安全自動車協会 理事



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Fri, 10 Apr 2026 14:42:13 +0900
<![CDATA[社史『ばね物語』8 創業(4)]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/03/171
目次


ばね物語 フセハツ工業50年の歩み

フセハツ工業の社史『ばね物語』は、三代目社長吉村健一が社業50周年を記念して発刊しました。


社史『ばね物語』発刊にあたり、協賛いただいたフセハツ工業OB会の方々。

株式会社東洋発条製作所     代表取締役 浦野春夫
コシオカ産業株式会社      代表取締役 越岡元弘
コシオカ産業株式会社        取締役 越岡伸子
株式会社隆光スプリング製作所  代表取締役 永田隆光
株式会社永田発条        代表取締役 永田昭夫
永田スプリング製作所         社長 永田一義
株式会社タイガーバネ製作所   代表取締役 竹山保
タツマ工業株式会社       代表取締役 吉川晋吾
協和バネ製作所            社長 中田鉄弘
フセハツ工業株式会社      代表取締役 吉村健一


『フセハツ工業』の企業理念
 弾む原理を進化させ、
 小さくても大きな使命と責任感をもって
 社会に貢献すべし


創業(4)奄美大島から永田隆光と伸子の入社

「密航」本土の遠さ

15歳のとき大阪に出てきた作田忠雄は、昭和26年(1951)3月には満35歳になっていた。

奄美大島を出てから20年の歳月が流れ、奄美大島で過ごした時間よりも、大阪で生活した時間の方が長くなった。

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作田忠雄の妻、タカヰの弟の永田隆光は昭和26年(1951)5月、米軍統治下にある奄美大島から大阪へ出ようと決心した。

奄美大島の生活は、山に木を伐りに行ったり、ササを刈ってきて普請したり、刈ってきたカヤを売って小遣いにしたり、荒れ地を耕してイモを植えた。

若い隆光にとっては単調な生活であった。

友人たちは奄美大島の生活が嫌になって、米軍基地の仕事を探しに沖縄に渡っていった。

忠雄の父、忠仁は「沖縄に行くぐらいなら、大阪の忠雄のところへ行け」と言った。

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米軍統治下にあって、日本本土へ渡るにはパスポートが必要な時代である。

渡航を禁止されていながらも、奄美大島から黒砂糖、鰹節を積んだ小型漁船が屋久島、鹿児島などに命がけで運んで、靴などの日用品と物々交換していた時代なのである。

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隆光が奄美大島を出発するとき、父親は線香を立てて、別れの杯を酌み交わした。

“密航船”に乗って隆光は島伝いに鹿児島を目指した。

口之島から屋久島の間が米軍統治下の境界線である。

この海域を突破できれば、本土への脱出は成功である。

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隆光の乗った小型漁船は口之島から夜の闇にまぎれて出帆した。

8時間かけて屋久島に到着した。

屋久島から鹿児島までは定期便があり、無地鹿児島に着いたので大阪へ電報を打った。

奥村輝義が大阪から鹿児島まで迎えに来てくれた。

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隆光は夢にまで見た大阪にやってきた。

姉のタカヰが大阪にいたので気持ちは楽だった。

しかし、実際に来てみると、『布施発条工業所』のある布施は奄美大島の名瀬よりもひなびたところで、大阪市内には焼け跡がまだ残っていて、殺伐とした風景が広がっていた。

のんびりとした奄美大島が懐かしく思い出され、隆光はホームシックになった。

大阪に来た歓迎の意味で、忠雄は隆光を天王寺動物園につれて行った。

奄美大島には動物園はなかった。

また、初めて観る大劇のOSKの華やかな踊りにも目を奪われ、感激した。

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大阪に着いて二、三日後に隆光は『布施発条工業所』に入社した。

仕事は鋼線を切る工程を最初に担当した。

働き始めて一か月ほど、隆光は御厨の作田忠雄の自宅に寝泊まりしたが、その後は火元責任者として工場に泊まるようになった。

ばね物語



昭和26年(1951)7月に、難波の大阪球場で関西初の夜間照明が設備された。

9月には大阪市立美術館でピカソ展が開かれ、12月には国際見本市館が開業した。

戦後の荒廃した大阪で、人々の生活に明かりがつき始めたところである。

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作田忠雄の妹、16歳の伸子は申請していたパスポートが1年かかってやっと出て、大阪に行こうとしていた。

伸子という名前は忠雄が付けた。

忠雄と伸子は20歳の年齢の開きがある。

タカヰと結婚するために忠雄が奄美大島に帰ってきたとき、伸子は6歳だった。

見ず知らずの兄を見て、伸子はとても恥ずかしかった。

やがて伸子が小学校に入学しようとするとき、大阪にいる忠雄からランドセルなど一揃いが送られてきた。

真新しい学用品をみて伸子は胸が躍り、入学する日を待ち遠しく思ったものだった。

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大阪へ行くと決まってから伸子は、1年間ほど父親に厳しく仕付けられた。

朝早く起きてまず家の周りを掃き、海岸から砂を三回ほど運んできて家のぐるりに撒いた。

続いて縁側の掃除をしたあと、ソロバンの練習をしてから学校へ行った。

大阪へ行くのは兄の事業を手伝うのが目的だから、朝、昼、夜の食事の前に「大阪のお兄さんが頑張っているのだから、お前も頑張らなければならない」と父親に聞かされてから箸を持った。

また、「大阪の兄の家に行っても、忠雄を兄と呼ばず、タカヰを姉さんと呼ばず、社長、奥さんと呼びなさい」と言われた。

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>社史『ばね物語』7 創業(3) 谷町営業所を開設

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監修者


フセハツ工業株式会社
代表取締役社長
吉村篤

2000年、ばねの総合メーカー「フセハツ工業株式会社」に入社。2013年、四代目代表取締役社長に就任。

  • 一般社団法人 日本ばね工業会 会員
  • 日本ばね学会 会員
  • 公益社団法人 大阪府工業協会 評議員
  • 東大阪市工業協会 理事
  • 東大阪商工会議所 議員
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Fri, 03 Apr 2026 16:58:46 +0900
<![CDATA[ワイヤーリングの新設備が入りました]]> https://www.fusehatsu.co.jp/blog/2026/04/03/170
目次

ワイヤーリングの新設備が入りました

自動車用ワイヤーリング機の専用機が新しくなりました。

大口径の精密リングを製造する専用機です。

旧設備と交替になります。

弊社のオリジナル設備で、長年のノウハウが詰まった設備です。

旧設備よりコンパクトになり、より精密に、よりパワフルになりました。


新ワイヤーリング専用機

新ワイヤーリング専用機の設置の様子です。

ワイヤーリング専用機



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旧ワイヤーリング専用機

旧設備は1980年製造です。46年の長きにわたりお疲れ様でした。

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旧ワイヤーリング機-2.jpg



ワイヤーリング専用機



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旧ワイヤーリング専用機 製造動画






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フセハツ工業株式会社
代表取締役社長
吉村篤

2000年、ばねの総合メーカー「フセハツ工業株式会社」に入社。2013年、四代目代表取締役社長に就任。

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Fri, 03 Apr 2026 14:53:08 +0900