大阪府工業協会 月刊誌「商工振興」 創業者偉人伝 作田忠雄
吉村篤創業者偉人伝
商売とは「人付き合い」
人と技術を守り育てて『ばねの進化』を未来へ
作田忠雄(1916~1984) フセハツ工業(株)創業者
奄美大島から大阪へ
作田忠雄は1916(大正5)年、鹿児島県は奄美大島にある大島郡龍郷村(現・龍郷町)に暮らす父・忠仁と母・冨士松の間に生まれた。
龍郷村は、島で一番大きな町から20キロ離れているが、海が近く、いつも潮の香りがする自然豊かな村だった。
父の忠仁は、豆腐屋を営みながら農業と養豚も行っており、村で最初に二毛作を始めるほど開拓精神に富んでいた。
忠雄は押さない頃から妹を背負い、豆腐を天秤棒で担いで売りに歩いた。
豆腐を売りながら、忠雄は人付き合いが商売の基本であることを自然に身につけていった。
尋常小学校を卒業した忠雄は、15歳になる1931(昭和6)年、同郷の友人と共に大阪の布施市(現・東大阪市)小阪にある「中村金物店」に奉公に出た。
忠雄は美しい海がある奄美大島が好きだったが、大阪で働いて家計を助け、将来は自ら店を持って商売をするのが少年時代から抱いていた夢であった。
故郷から遠く離れた大阪で働くのは、時には辛く寂しくもあったが、そのたびに「早く独立できるように頑張らねばならない」と、自分自身を叱咤激励した。
奉公先の中村金物店は小阪で1~2を争う金物店で、忠雄の生活は多忙を極めた。
一緒に奄美から出てきた友人は、その生活に耐えきれず、程なくして店を辞めてしまったが、忠雄は両親からの手紙にあった「ひとところで勤めあげなさい」との言葉を胸に、懸命に働いて「商い」のイロハを身に付けていった。
幸せを切り裂くサイレンの響き
1940(昭和15)年、24歳になり中村金物店でも一人前と見なされる様になった忠雄のもとに父・忠仁が縁談を持ち込んできた。
母・冨士松の弟の娘である永田タカヰを嫁にどうかとう話であった。
太平洋戦争の最中、戦局がじわじわ日本の劣勢に傾きつつあった1942(昭和17)年、そんな暗い世相を吹き飛ばすように、2人は奄美大島で親類を集めて盛大な結婚式を挙げた。
大阪の空にも空襲警報のサイレンが響き渡ることが多くなった1944(昭和19)年、忠雄に徴用の知らせが届いた。
中村金物店に勤めて13年、独立して自分の店を構えようと考えていた矢先のことだった。
はじめは大阪の造船所に徴用されたが、そこが空襲を受けて消滅。
結局、忠雄は消防団へ入団することとなり、独立は一旦保留せざるをえなかった。
「ばね作」創業と自転車スタンド
戦局も押し詰まり、故郷の奄美大島では米軍の機銃掃射と爆撃が激しくなっていた1944(昭和19)年、大阪でも米軍による攻撃が激化し、タカヰは空襲警報のサイレンが鳴り響く中で長男・為宣を出産した。
忠雄もタカヰも長男の誕生を心から喜んだが、そんな家族の幸せとは裏腹に、大阪への空襲は激しさを増し、幼い子供を背負って家と防空壕を往復するような日々を送ることとなった。
戦争がようやく終わった1945(昭和20)年、大阪の街は一面焼け野原となっていた。
しかし、生き延びた人々は希望を胸に、新しい時代に向かって生活を再開させていた。
忠雄は中村金物店での経験を活かし、鍋やバケツなどの金物を売ることにした。
当時はあらゆる生活用品が枯渇しており、どんなものでもすぐに売れていった。
しかし、社会が復興し、人々の生活が安定してくれば、他の店と代わり映えしない金物やでは、すぐに生活が苦しくなるだろうと考えた忠雄は、当時家の近所に工場のあった「ばね」に着目し、これを自分で作ってみようと考え、1946(昭和21)年、当時の自宅を改造して、ばね製造業「ばね作」の看板を掲げ、製造業として再スタートした。
とはいえ、ばね作りのノウハウなど持っていなかった忠雄は、創業から2ヶ月間、近所のばね工場に毎日通い、雑用や製品の配達をさせてもらいながら、ばね作りの基礎を学んでいった。
ばね作の仕事が軌道に乗ったのは、1948(昭和23)年頃で、自転車のスタンドに使われるばねの注文がきっかけだった。
ドラム缶の中で薪を燃やし、その上に串に通したばねを焼き鳥のように並べて「焼き」を入れる。
真夏の炎天下での作業は、想像を絶する暑さだったが、それでも懸命に働く忠雄は、少しずつ周囲の信頼を勝ち取っていき、ばね作の売上は順調に伸びていった。
会社の飛躍と発明の日々
1950(昭和25)年、朝鮮戦争が勃発すると、戦後経済の不況にあえいでいた日本が、皮肉にも朝鮮戦争の特需で息をつけるようになった。
これまでの自宅では増え始めた受注量をこなせるだけのスペースがなかったので、忠雄は自宅とは別に布施市(現・東大阪市)川俣に工場を建設し、完成と同時に「(株)布施発条工業所」を設立した。
1950(昭和25)年、11月1日、資本金20万円、従業員8人での門出であった。
1951(昭和26)年、自転車スタンドのばねの仕事が下火になってきた頃、かわって傘ばねの仕事が入ってきた。
その後、傘ばねのほかにも製釘機のばね、ミシンの押しばね、キックばねなど取扱い品目は拡大していった。
忠雄は受注が増え続けるなか、昼はスーツにネクタイ姿で営業に回り、夜は作業着に着替えて社員たちと一緒に照明のない真っ暗な工場で、毎日深夜遅くまで作業を続ける日々をおくったが、それでも生産が追い付かないこともあった。
さらに1954(昭和29)年、健康器具の「エキスパンダー」を手掛けるようになったほか、1957(昭和32)年から翌年にかけて、「ホッピング」というばねの反動を利用して地面を飛び跳ねる玩具、その他にも洗濯バサミ用のピンチリングや玩具のピストル用ばね、ゴルフボールを置くスプリングティー、握力をを鍛えるハンドグリップなど、布施発条工業所はばねというコア技術を中心に、様々な製品を作るようになっていった。
それは、社長の忠雄が大の発明好きであったことに起因している。
デパートに行っては、売れ筋商品をチェックし、どのように手を加えたら自社に応用できるかを考えたり、特許一覧を取り寄せて、考案した商品がパテントをとる価値があるか調べたりした。
ばねの総合メーカーへ
1966(昭和41)年、布施市・河内市・枚岡市が合併して東大阪市が誕生した年の前年、忠雄は社名を現在の『フセハツ工業(株)』に変更した。
1960年代に入り、自動車のクラッチ製造会社との取引がスタートした結果、受注量が急激に増加し、それに対応する従業員の数も増え、いわゆる「町工場」から「事業会社」へと脱皮する節目が必要だと考えてのことだった。
不良品が人の命に関わる大きな事故に直結する自動車部品を扱うようになり、取引先からこれまで以上の精密さとスピードが求められるようになったことから、品質管理・生産管理のノウハウも蓄積され、フセハツ工業(株)は「確かな品質と徹底した納期管理を行う会社」として認められるようになっていった。
人と技術を未来へ繋ぐ
忠雄は、自社の社員にはもちろん、会社から独立していった“卒業生”達へも手厚く支援を行う包容力のある人物だった。
ある人には工場を、またある人には仕事を紹介し、どうしてもという時には借入の保証人になって、元部下たちに手を差し伸べた。
「作田社長の度量の深さと包容力のお蔭で今がある」と、フセハツ工業の卒業生たちは口をそろえて感謝の言葉を述べたという。
後のフセハツ工業2代目社長となる長男・為宣氏が結婚した1984(昭和59)年、忠雄は心臓の病により67歳でこの世を去った。
会社の大黒柱として、まだまだ経営に辣腕を振るう中での突然の別れであった。
フセハツ工業はその後、時代の荒波や幾多の試練に見舞われながらも、「弾む原理を進化させ、小さくも大きな使命と責任感をもって社会に貢献すべし」という経営理念を体現し続けるべく、蓄積された様々な「ばねの製造技術」を継承し、グローバルな時代に合わせて発展・進化させ続けている。
15歳で奄美大島から大阪に渡り、苦しい修行時代とつらい戦争を経て、一代で会社を築き上げた忠雄の夢は、これからもフセハツ工業と共に、そして忠雄の下で育った多くの社員たちと共に、次世代へと受け継がれていく。
「商工振興」創業者列伝 フセハツ工業(株) 創業者作田忠雄(PDF)