2024/01/17
岐阜県羽島市立竹鼻中学校 バネ工場見学
吉村篤
バネ工場見学
岐阜県羽島市立竹鼻中学校様
2023年10月26日、岐阜県羽島市立竹鼻中学校の生徒の皆さんがバネ工場の見学に来られました。

羽島市立竹鼻中学校は、木曽川と長良川に挟まれた場所にあります。かつては、洪水災害の絶えないところで、輪中が発達した地でした。
校訓は「自主・友愛・創造」です。教育目標は「夢に向かって挑戦し 人と豊かにかかわって 自ら未来を拓く」となっています。

竹鼻中学校は1947年の設立です。岐阜県内の中学校で最も生徒数が多く、1000人以上のマンモス校でしたが、1993年に中央中学校と分離分割されました。

竹鼻中学校のある羽島市竹鼻町はかつて城下町として栄え、羽島地方の商業の中心地でした。

竹ヶ鼻城は、戦国時代に小牧・長久手の戦いで、豊臣秀吉から水攻めに遭い落城します(竹ヶ鼻城に水攻め)。そして、関ヶ原の戦いでは、前哨戦として福島正則に攻囲され再び落城します(竹ヶ鼻城の戦い)。

後、廃城となりました。現在、跡地は歴史民俗資料館となっています。

竹ヶ鼻城の前には竹鼻別院があります。
竹鼻別院には、樹齢300年以上といわれる「竹鼻別院のフジ」(県指定記念物)があります。毎年4月下旬から5月上旬には華麗な薄紫の花が咲き乱れ、「美濃竹鼻ふじまつり」が開催されいます。

藤棚の下ではお抹茶コーナーや模擬店、撮影会など各種イベントが行われています。

また、竹鼻町には永田佐吉によって作られた佐吉大仏(竹鼻大仏)とよばれる大仏があります。日本にある大仏で、唯一個人名が付けられた大仏です。
永田佐吉(1701~1789)は、貧しい百姓の子として生まれました。幼くして両親と死別し、継母に育てられます。
さまざまな苦労を重ねた後、佐吉は商売を始めました。その正直でまじめな働きぶりは、人々の信頼を得て財を成し、豪商となりました。

佐吉の商売は、相手との信頼関係を第一としたものでした。蓄えた財は私利私欲のためではなく、道路整備や橋の設置、神社仏閣への寄進など、地域の人々のために使われました。寄贈者は自身の名前ではなく、村人全員としたそうです。
1750年に佐吉は母親と人々のために大仏を建立します。この大仏は江戸の鋳物師に発注しましたが、船で運搬中に嵐で沈んでしまいます。「大仏は海から人々を守ってくださる」と、佐吉は船主を責めることなく再発注しました。

永田佐吉は、慈悲の精神・至高の親孝行・匿名の社会奉仕などで「美濃聖人」と呼ばれ、二宮尊徳と同様に明治時代の国定教科書に採用され、紹介されました。

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岐阜県羽島市立竹鼻中学校様
2023年10月26日、岐阜県羽島市立竹鼻中学校の生徒の皆さんがバネ工場の見学に来られました。

羽島市立竹鼻中学校は、木曽川と長良川に挟まれた場所にあります。かつては、洪水災害の絶えないところで、輪中が発達した地でした。
校訓は「自主・友愛・創造」です。教育目標は「夢に向かって挑戦し 人と豊かにかかわって 自ら未来を拓く」となっています。

竹鼻中学校は1947年の設立です。岐阜県内の中学校で最も生徒数が多く、1000人以上のマンモス校でしたが、1993年に中央中学校と分離分割されました。

竹鼻中学校のある羽島市竹鼻町はかつて城下町として栄え、羽島地方の商業の中心地でした。

竹ヶ鼻城は、戦国時代に小牧・長久手の戦いで、豊臣秀吉から水攻めに遭い落城します(竹ヶ鼻城に水攻め)。そして、関ヶ原の戦いでは、前哨戦として福島正則に攻囲され再び落城します(竹ヶ鼻城の戦い)。

後、廃城となりました。現在、跡地は歴史民俗資料館となっています。

竹ヶ鼻城の前には竹鼻別院があります。
竹鼻別院には、樹齢300年以上といわれる「竹鼻別院のフジ」(県指定記念物)があります。毎年4月下旬から5月上旬には華麗な薄紫の花が咲き乱れ、「美濃竹鼻ふじまつり」が開催されいます。

藤棚の下ではお抹茶コーナーや模擬店、撮影会など各種イベントが行われています。

また、竹鼻町には永田佐吉によって作られた佐吉大仏(竹鼻大仏)とよばれる大仏があります。日本にある大仏で、唯一個人名が付けられた大仏です。
永田佐吉(1701~1789)は、貧しい百姓の子として生まれました。幼くして両親と死別し、継母に育てられます。
さまざまな苦労を重ねた後、佐吉は商売を始めました。その正直でまじめな働きぶりは、人々の信頼を得て財を成し、豪商となりました。

佐吉の商売は、相手との信頼関係を第一としたものでした。蓄えた財は私利私欲のためではなく、道路整備や橋の設置、神社仏閣への寄進など、地域の人々のために使われました。寄贈者は自身の名前ではなく、村人全員としたそうです。
1750年に佐吉は母親と人々のために大仏を建立します。この大仏は江戸の鋳物師に発注しましたが、船で運搬中に嵐で沈んでしまいます。「大仏は海から人々を守ってくださる」と、佐吉は船主を責めることなく再発注しました。

永田佐吉は、慈悲の精神・至高の親孝行・匿名の社会奉仕などで「美濃聖人」と呼ばれ、二宮尊徳と同様に明治時代の国定教科書に採用され、紹介されました。

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