2023/07/31
本田技研工業様 バネ工場見学
吉村篤
バネ工場見学
本田技研労働組合 鈴鹿支部様
2023年6月16日、本田技研労働組合 鈴鹿支部様がバネ工場見学に来られました。

本田技研工業 鈴鹿製作所は1960年(昭和35年)に国内3番目の工場として設立されました。

世界的ベストセラーの「フィット」をはじめ、軽自動車やNシリーズやハイブリッドカーを生産しています。

鈴鹿製作所は、世界28か国のホンダの工場に部品を供給し、現地調達される部品と合わせ、現地生産活動を支える重要な役割を果たしています。

また、海外への工場へ技術支援するマザー工場としての役割も担っています。

鈴鹿製作所は、グローバルスタンダードラインとして北米や英国などの世界のホンダの量産ラインの基準となっています。

本田技研工業の創業者である本田宗一郎は1906年(明治39年)静岡県浜松市で鍛冶屋の息子として生まれました。

1928年(昭和3年)22歳の時、丁稚奉公していた自動車修理工場「アート商会」から、のれん分けのかたちで独立。1937年(昭和12年)31歳で社業拡大にともない「東海精機重工業」の社長に就任。


1942年(昭和17年)豊田自動織機から出資を受け、専務に退きます。

1945年(昭和20年)39歳の時、三河大地震で工場が倒壊し、豊田自動織機に会社を売却。
「人間休養」と称して1年間の休養に入ります。

そして、1946年(昭和21年)に前身となる本田技術研究所を設立しました。


鈴鹿市は三重県の中央に位置する人口19万にの都市です。

鈴鹿市は、第二次世界大戦のときに軍部の強い意向により、1942年(昭和17年)強制的に市町村を合併させて誕生した軍都でした。

戦後は広大な軍用地を転換し、自動車産業など数多くの企業を誘致し、工業都市として生まれ変わりました。

現在は三重県下で第2位の工業都市としての地位を確立しています。

1962年(昭和37年)には鈴鹿さーっきとが開場し、「F1 日本グランプリ」やオートバイ「8時間耐久レース」など数多くのレースが開催されています。

世界的にも有名なコースとなり、「モータースポーツの聖地」とも言われています。

>本田技研工業
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本田技研労働組合 鈴鹿支部様
2023年6月16日、本田技研労働組合 鈴鹿支部様がバネ工場見学に来られました。
本田技研工業 鈴鹿製作所は1960年(昭和35年)に国内3番目の工場として設立されました。

世界的ベストセラーの「フィット」をはじめ、軽自動車やNシリーズやハイブリッドカーを生産しています。

鈴鹿製作所は、世界28か国のホンダの工場に部品を供給し、現地調達される部品と合わせ、現地生産活動を支える重要な役割を果たしています。
また、海外への工場へ技術支援するマザー工場としての役割も担っています。
鈴鹿製作所は、グローバルスタンダードラインとして北米や英国などの世界のホンダの量産ラインの基準となっています。
本田技研工業の創業者である本田宗一郎は1906年(明治39年)静岡県浜松市で鍛冶屋の息子として生まれました。
1928年(昭和3年)22歳の時、丁稚奉公していた自動車修理工場「アート商会」から、のれん分けのかたちで独立。1937年(昭和12年)31歳で社業拡大にともない「東海精機重工業」の社長に就任。

1942年(昭和17年)豊田自動織機から出資を受け、専務に退きます。
1945年(昭和20年)39歳の時、三河大地震で工場が倒壊し、豊田自動織機に会社を売却。
「人間休養」と称して1年間の休養に入ります。
そして、1946年(昭和21年)に前身となる本田技術研究所を設立しました。

鈴鹿市は三重県の中央に位置する人口19万にの都市です。
鈴鹿市は、第二次世界大戦のときに軍部の強い意向により、1942年(昭和17年)強制的に市町村を合併させて誕生した軍都でした。
戦後は広大な軍用地を転換し、自動車産業など数多くの企業を誘致し、工業都市として生まれ変わりました。
現在は三重県下で第2位の工業都市としての地位を確立しています。
1962年(昭和37年)には鈴鹿さーっきとが開場し、「F1 日本グランプリ」やオートバイ「8時間耐久レース」など数多くのレースが開催されています。

世界的にも有名なコースとなり、「モータースポーツの聖地」とも言われています。
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